ひたすら生態学(とその近隣)の本を推していくブログ

五文字では足りなかった……!情念で押していく所存です。みんな!ここに沼があるよ!

生態学キーノート/A. Mackenzie・A. S. Ball・S. R. Virdee(著)・岩城 英夫(訳)

生態学」ってどんな学問なのだろう?


「生態」とあるのだから、生き物の生きている様を調べる学問なのでは?」という回答もあるかもしれない。じゃあ、生態学をやっている人は、みんながみんな、生き物の生活史(その生き物がどのように生活しているのか)を調べている人ばかりなのか。


答えはおそらく否だ。例えば草原がどれだけの二酸化炭素を貯蓄しているのか調べているのは「植物生態学」の分野だ。そういう場合、バケツをひっくり返したような容器に野外の植物を閉じ込めたりして、草原の一年間の二酸化炭素の収支を測っていたりする。他にも、水中の環境DNAを調べている人がいたり、熱帯雨林の上から下までいったいどんな生物がいるのかリストアップしたりする人がいたり……じゃあ一体「生態学」って何なんだ。


本書「生態学キーノート」は、最初にその問いに答えるところから始まっている。生態学とは、生物とその環境の相互作用に関する学問だ、と定義づける。個人的に、この定義はとてもよくできているな、と思う。「環境」との「相互作用」なのだから、生き物は環境から影響を受けるし、環境もまた生き物から影響を受ける。そして、環境には物理的環境も、生物学的環境も含まれる。ヒトは肉を食べ魚を食べ野菜を食べることで「(生物学的)環境」から恩恵を受けている。また、呼吸により二酸化炭素を吐き出すことで、地球上の二酸化炭素の総量を変える(人間が「物理的環境に影響を与える」)。そういった、生き物と、それを取り巻く世界との「関わり方」を明らかにしていく学問なんだよ、というものが、この本における「生態学」の捉え方になっている。


生態学」という学問があるのは知っている。ただ、どこから手をつけていいのか分からない、という方。また、生態学をより深く知っていくための取っ掛かりがほしい、という方。もしそういう方がおられるのなら、私は迷わずこの本をおすすめしたい。いや〜いい本……いい本なんですよ……。


まず、構造的に見やすい。
ざっくりとした説明で、本に対して大変恐縮なのだけれど「概要」→「基礎知識」→「大きな話」→「小さめ(個別の)話」→「大きな話(地球全体規模)」→「近年起きている諸問題・応用の話」という流れになっているので、生態学の全体像が把握しやすい。


具体的には、最初に、冒頭に述べたような「生態学とはどういう学問か」の説明がある。そこから、生態学の10規則の説明に移る。生態学の10規則は以下のように示される。


生態学は科学である
生態学は進化の観点からのみ理解できる
・種の利益のためには何事も起こらない
・遺伝子と環境の両方が重要
・複雑なものを理解するためにはモデルが必要
・「物語」は危険
・説明にも階層性がある
・生物には多くの制約がある
・偶然も重要である
生態学の境界は生態学者の心の中にある


(個人的に「生態学は進化の観点からのみ理解できる」がすごい抉ってくる……進化よわよわの私には大変耳が痛い……)。


さらに、地球上の気候を大まかに紹介し、個体群の話から、個体群の中の種内競争の話へと移る。そして種間関係(群集)の話になり、特徴的な景観の話に移る。後ろの方には、生物濃縮や外来種問題などの、近年の環境の諸問題について説明がある。これらの流れに従って読んでいくうちに、「生態学」という学問の全体像がイメージされる構造になっている。


しかし、「最初から最後まで読むのは面倒だ」という方もいるかもしれない。それに対しても、大丈夫だ、と太鼓判を押させていただきたい。どの章も基本的に一章で完結しているので、どこから読んでもオーケーな形になっている。ぱらぱらとめくって、気になった章だけ読んでいくのでも、十分お役に立てると思う。


この本のレイアウトは、とにかく見やすい。
章の最初に「まとめ」を持ってくることで、その章全体の内容が理解できるようになっている。
また、重要な語句を最初にピックアップし、それに対して説明を付け加える形になっている。
なにより、本自体が大きめで、余白もたっぷりとってある。「生態学キー『ノート』」の名前は伊達じゃない。自分が調べたことや、疑問・考えたことなんかもたくさん書き込める。
たくさん書き込んで、是非、あなただけの一冊、あなただけの「生態学キーノート」に仕上げてほしい。


そして、大変いい本、大変いい本と連呼し、ここまで書いておいて、最後に大変……大変残念なお知らせを……この「生態学キーノート」、現在絶版となっています……
是非是非の復活を!と願わずにはいられない。その祈りを込めて、ここで強く強く推させていただきたい。

読書猿さん(くるぶしさん)への私淑

読書猿さん(くるぶしさん)のブログは、大学院時代から拝見している。それがために、それだけを根拠に「私淑」と言いたいわけではなく、私は読書猿さんに、「学び」の面で大きく3回助けていただいているので、このタイトルにしてみた。(※完全に自分にとってだけの話なので、読書猿さんからすると全く「ど、どういうこと!?」というお話だと思う…………)「師」、現在までのところ、ラストのお話。そして現在進行形でもあるお話。


大学院時代の話をいろいろ書いては来たのだけど、所属していた研究室の直接のボスのことをあまり書いてこなかった。研究室では、指導教官からのアカデミック・ハラスメントを筆頭とした各種ハラスメントがひどく(※セクシュアルなものに関しては、のちに所属大学が事実関係を認定)ちょっと、本当に、しんどい時期でもあった。

そういう時に、読書猿さんのブログを拝見しながら、「すごい方がいらっしゃるな」「『学問』自体、それそのものは、決して悪いものではなく、こんなにも素敵なものなんだな」と、いつもとても励まされる気持ちだった。

特に好きだったのが「図書館となら、できること」シリーズで、最初は「人文系の方々にとって、本当に図書館ってすごいんだな。うらやましいな」という思いだった(※元々、文系に対する憧れがある)。しかし、何度も読んでいくうちに「あれ?この書いておられる内容は、別に文系理系とか全然関係ない話なのではないだろうか」と思うようになった。

さいころから、図書館はとても好きで、でも、大学に入ってからかえって足が遠のいていた。私は本自体もとても好きだった。しかし、指導教官が「本なんて読んでいる暇はない。論文を読め」というスタンスの方であり、実際によく口にされてもいた。そして、理系全体ではわからないけれど、少なくとも私のいた分野では、本は論文よりも一段劣るものとされていたように思う。

ただ、私としては、「本」の形だと、その著者の考え方全体が分かる感じであること、また初めての分野などに対しては論文よりもとっつきやすい部分があること、などから、本もとても好きだった。自分のそういう部分、本に対する愛着を恥じてもいたのだけれど、どうしてもその「好き」を手放すことができなかった。読書猿さんのブログは、そこに対して、本を好きでいていいのだ、自分でいいのだ、と、優しく背中を押してくれているようで、とても嬉しく、有難かった。

そのうち、研究室を抜け出して、大学の図書館にもちょくちょく行くようにもなった。物理的に離れることも大事であったのだけれど、そういう時は「自分は、今、何を読んでもいいのだ」と思えて、ふと息がつける、息ができるような思いがあった。

自分の専門とは全然関係ない本を、ぼんやり読むこともあった。あれこれと読んでいた本のなかに、古代ギリシャのテオプラストスの書いた植物学の本があった。読んでいくうちに、まずそれが2000年以上も前に書かれた本であること、そして植物に対する深い愛とまなざしがあること、植物種が分類されて綿密に記載されていること……などなとに、門外漢ながら、とても深く感銘を受けた。

あの時期に、そんな時間を過ごすことができたのは、自分にとって本当によかったな、と思っている。読書猿さんのブログを読んでいなかったら「図書館にいく」なんて考えは、全く頭に浮かばなかった。「図書館は、いいところだよ。素敵なところだよ」と、いざなって下さったから、私は、あの辛い日々を持ちこたえることができたのではないかと思う。


ただ、いろいろ頑張りはしたのだけれど、私は結局博士の学位を得ることができなかった。しかも、持病ができてしまった。それでも日常は続くので、日々を忙しくは過ごしていた。しかし、ぼんやりとした違和感のようなものをいつも抱えていたように思う。そのうちに、何かこう、自分で少し書く場所が欲しくてTwitterを始めた。もちろん読書猿さんをフォローした。ただ、自分は生態学を途中でやめてしまったという引け目から、あまりアクティブな気持ちにはなれていなかったように思う。「私ごときが」という思いがどうしても抜けなかった。

確か昨年4月の頭に「なにか自分のやりたいことを、勇気を出して書いてみよう!」というTweetがTLに流れてきた。ふと、思い立って(それこそ勇気を出して)、「生態学を全然知らない、でもちょっと始めてみたいな、という方のための、生態学の本の紹介をしてみたい」と書いた。

しばらくして、いきなりリツイート通知が来て、びっくりした。しかも、それがなんと、読書猿さんだったので、むちゃくちゃびっくりした。バスの待ち時間に確認していたのだけれど、あまりの衝撃で、目の前に来たバスに危うく乗りそこねそうになるぐらいだった。本当にびっくりした。

さんざんびっくりしたあと、読書猿さんへの感謝の念とともに、やる気がむくむくと湧いてきた。こんな私だけど、自分の好きなことで、もしかすると少しぐらい、人の役に立てたりすることがあるのかもしれない。そんな風に思えた。

それから少しずつ、腰を入れて生態学関連の本を読み返したり、を始められるようになった。それは、なにか、自分自身を少しずつ取り戻していく作業でもあったように思う。そして、そういう気持ちを取り戻せたのは、本当に嬉しく、ありがたいことだとも思っている。読書猿さんには、ちょっとこう、私の語彙力ではどう申し上げていいのか上手くいい表せないぐらい、とてもとても感謝している。


さて、勉強を始めたのはいいけれど、なかなか時間もとれないし、効率も悪い。困ったな……と思っていたところに、まさに降臨した(※ほんと主観的には)のが、「独学大全」だった。読書猿さんご自身からのアナウンスがあったとき、今、まさにそれ!それが必要なんですよ!という思いだった。それはもう、即、予約した。

実際に自分の手元に届いた時は、事前に想定していた厚さをはるかに上回る分厚さだったため、一瞬、「私にこれが使いこなせるだろうか……」という気持ちになった。実際、書かれている55の技法のうち、現在までのところ、私が実践できているのはまだ15個だ。ただ、しかし、それでも自分の学びの大きな大きな助けになり、力になっているな、ということが実感できている。

技法が多い、ということは、ある技法が自分に向いていなくとも、他の技法を試せばいいし、組み合わせて使うこともできる(自分的には、コミットメントレターと2ミニッツ・スターターの組み合わせが、取りかかりのハードルをとても下げてくれる)なにしろ、独学大全はTwitterで毎日「これはすごい!」と流れてくるし、ブログでもとても素敵なことを書かれたりしていらっしゃる方もおられる。

「独学は孤学ではない」と読書猿さんが言われていて、それはまた少し違う意味を含んではいるのだろうけれど、それでも、「独学大全」を通じて、これだけの人が独学を志し、独学に取り組んでいる、ということが可視化されたのは、本当にすごいことだと思う。また、その中のひとりとして、やはり、他の人がこんなに頑張っている、ということがわかるのは、嬉しいことだな、とも思う。


さらに、そこから繋がれて、独学広場広報の方から「独学広場」に誘っていただけたのも、自分の学びを続けていく上で、とても大きかったと思う。独学広場で、毎日のコミットメントレターとラーニングログをつけることを習慣化していて、おかげさまで半年ぐらい続いている。

管理人の方々も優しく、とても雰囲気のよい学びの場だな、と思い、いつもお邪魔させていただいている。場を設け、維持して下さっている管理人の方々には、本当に感謝の念に堪えない。

学びの場にはわりと長くいたのだけれど、そこは基本的に「戦え。背中を見せるな。研究室・大学の誉れたれ」のような場だった。間違えることや、ましてや弱音を吐くことは、全く許されていなかった。でも、前述のようにいろいろあって、今、独学広場にいさせてもらって、日々「あーできなかったー」「これがしんどい」などと愚痴りつつ過ごしている。独学広場は、それが全然許して貰える場で、温かく見守ってもらったり、優しいアドバイスを貰えたりする場で、やっと、ここにきて、自分の学びが始まったような気がする。これから、これから、と思って、毎日を過ごしている。


さて、しかし、そもそも「師」、読書猿さんは……なんというか深すぎて、まるで人物像が掴めていない。独学大全の「私淑」の項目では、「師について情報を集め、自分の中で師の像を作り、『師ならどうするか』を考える」という主旨のことが書いてある。

読書猿さんの「アイデア大全」「問題解決大全」も読んだり使ったりしてはいる。独学大全フェアも行き、読書猿さんが読まれた本、独学大全のベースになっている本のリストも手にいれはした。しかし、ちょっとこう……師の履修範囲が広すぎて、全くと言っていいほどわからないことが多すぎる。ご著書の著者紹介欄に「正体不明」と書かれておられるのは伊達ではないなあ……と思い知らさせる。

Twitterひとつとっても、真面目な量子力学Tweet、数学のお話が流れてくるかと思うと、お茶目なリツイートが流れてくる。例えば、私の記憶が確かならば、こないだ、キャプテン翼と競馬?関係のトンデモ画像が、読書猿さんからリツイートで流れてきた、はず……。サイゼリヤ情報も読書猿さんからだったり……。そして時折、私のネタツイをリツイートして下さって、泡を吹くこともあり……。出版社の担当の方が、「読書猿さんは大変心が広い」とおっしゃっていたけれど、大きく、そこは大きくうなずき、同意させていただきたいなあと思う。

そういったわけで、現状、私には読書猿さんはもう「指」どころか、「姿」が見えていない。姿も見えない、また力も伴わないのに「私淑」はまあ……噴飯ものだとは思うのだけれど、ただ、読書猿さんはとんでもなく綺麗な「月」を見ておられて、私にもそれだけはわかるので、小さく小さく遠くともいいから、そんな「月」が見てみたいなあ、という望み、野望はある。「月はいつもそこにある」のなら、見ようと思ってあれこれやっているうちに、もしかすると、少しは見えてくることはあるかもしれない。


そして、まずは、「師」にお伺いしたいことがある。読書猿さんは、生態学の教科書として、ベゴンの「生態学」を挙げられている(独学大全でも、ブログでも)。ベゴンの生態学、むちゃくちゃ名著だと思う。大学院時代に、隣の研究室と合同で原著の輪読をしていたけど、本当に読み応えのある、しっかりしたいい本だと思う。まだ全部は読み切れていないので、独学大全で推していただいて、よし!という気持ちになった。

では他に、読書猿さんが、生態学の本で「よし」とされている、「推し本」には、どんな本があるのだろうか。とても気になっている。マシュマロのご回答で挙げられていた、「学んでみると生態学は面白い」「生き物の進化ゲーム」は読むとして、さらにどんな本があるのか、是非お伺いしてみたい。

私は、独学大全冒頭の「老生物学者との出会い」のお話がとても好きで、おそらく読書猿さんは、生物学も生態学も、ご造詣がとても深くておられるだろうなと思っている。しかも読書猿さんは、生態学も生物学もたくさんいろいろお読みになっておられるので、その「読書の森」の中から、さらに何を選ばれるのかがとても気になって仕方がない。

いずれ何らかの方法で、お邪魔でない方法で、お伺いしてみたいものだと思っていたのだけれど、読書猿さんはお忙しいから……と思っていたのと、私が、自分の、あまり人と人の間の機微がわかっていない傾向を知っているため、よしそのうちに、そのうちに……とためらっていた。

そうしたら、大全シリーズの刊行とベストセラー化で、おそらくさらにお忙しくなっておられるような状況で……。いや、でも、もうこの瞬間、このタイミングだよな……さらにさらにお忙しくなるだろうから……。とりあえず、これを書き終わったら、質問文の文面を考えて、書いて、マシュマロでお伺いしようと思っている。(でも、これ、実は方法的にもタイミング的にも最悪手だったりしないだろうか……)(いや、やらないより、やった方がいいことかもしれない)


よし、じゃあ、そんなわけで!


【コミットメントレター】
読書猿さんのマシュマロで、生態学の推し本を伺う


おれはやるぜ。おれはやるぜ。

国際学会での先生方との思い出

「国際学会」ってタイトルに入っているから、読んでいただいている方に、なんかこう……すごい敷居の高い話なんじゃと思われたら嫌だなと……それは誤解です……国際学会、大きいのも小ちゃいのも色々ありますし……あと、こういうのは正直に書いておこう。

 

私のTOEIC最高点は595点です。(※勉強した結果で)(※お察し下さい)

 

そんな感じで、毎回、あっぷあっぷでこなしていた国際学会。そんな中で、外国の先生方も大変優しかった、というお話を書いておきたいな、と思った。

 

とある国際学会でのお話。Manly-and-Parr法の、Parr先生のお話。

 

学会発表の時には、自分の発表内容を短くまとめた「要旨」(アブストラクト)を提出する。私の当時の発表の概要は、「絶滅危惧種の個体数の推定法」にまつわるものだった。

 

ある生息地にどのぐらいの数の生き物がいるのか、を推定するのは、実は結構難しい。というのも、まさか全部捕まえて数を数えるなんてできないからだ。

 

特に絶滅危惧種なんて、捕獲する際に傷ついたり、個体の行動に影響を与えてしまったり、なんてしてしまったら最悪だ。そのため、対象の生物種を直接捕獲せずに推定する方法を考える必要がある。

 

その時の私の研究の発表内容としては、いくつかの方法を複合(合体)して使うことで、対象種への影響を最小限で済ませることができるよーというものだった。その中の、個体数の推定のひとつとして「Manly and Parr法」を挙げていた。

 

その研究発表の当日、当然のようにめちゃくちゃ緊張していた。国際学会の発表は2度目、しかも英語は全然できない、ときている。(※どうしてそんなことに)(※いろいろありまして……)

 

研究室の方針で、学会発表時はスーツ着用だった。緊張のあまり、朝食の後もスーツ姿でホテル内を落ち着きなく歩きまわっていた、と思う(※完全に不審者)。そして、学会発表用の名札もつけたままだった(今考えても……恥ずかしい……)。

 

ホテルの廊下の大きな鏡の前で、何か服装で変なところはないか、とチェックした後のことだったように思う。

 

通りかかった白髪の老紳士が「今日の(学会)発表かね」と声をかけて下さった。私にも聞き取りやすい、はっきりした英語だった。

 

つたない英語を駆使しながら「そうなんです……とても緊張してしまって……」とお返事したところ……あれ?この方、私と同じ名札をつけている……?

 

あっ……あっ……Parr先生だ……私がアブストラクトに書いていた、「Manly-and-Parr」法を開発された、まさにご本人だ……

 

いやもう、びっくりした。本当にびっくりした。しかし、Parr先生は、全くおかまいなしに「大丈夫だよ!」と気さくに、大変フランクに話しかけて下さる……。

 

「いいかい、口頭発表にはいくつかのコツがある。まず簡単なようで難しいこと。マイクはまっすぐ、胸の位置で持つ。このぐらいだよ!(※実際にやって見せてくださった)せっかく良い発表でも、聞こえないと意味がないからね。それから、原稿を見ないこと!みんな、君の話が聞きたいんだ。原稿の文章を聞きたいわけじゃない。自分の言葉で、みんなに伝えるんだよ!大丈夫、君はちゃんとできるよ!」

 

明るく、そして爽やかに伝えて下さると、Parr先生は矍鑠と……というより、むしろさっそうと去っていかれた。私は自分の幸運に呆然としつつ、でも「よし!発表頑張ろう!」という前向きな気持ちをもちつつ、学会の会場に向かった。

 

発表は、思ったよりはよくできた。ただ、結果には繋がらず、研究発表の「賞」は、一緒に来ている同期がとった。自分としてはよく頑張ったと思える出来だったので、そこはあまり気にはしていなかった。だいたい、同期は大変良くできたので、自分を比較するのもおこがましい……。

 

日本へ帰る荷造りをしている時に、なぜかまた再びParr先生のお目にかかった。ロビー等ではなく、ホテルの廊下の出会いがしらだったように思う。

 

Parr先生は何故か私のことを覚えていてくれて「君か!発表とっても良かったよ!でも賞が取れなくてそこは残念だった!」Parr先生は、何故か発表者本人の私なんかより、よっぽど残念そうにしてくれていた(優しい先生だなーとしみじみ思った……)Parr先生は続けて、

 

「君の発表は大変良かった。君の発表は二番目に良かった。ただ、君の友人の方が、ちょっとだけ良かった。本当にちょっとの差だった」とさらに慰めて下さった。

 

いや多分贔屓目に見ても、同期と私の差は「ちょっと」ではなかったろうなあ……と自分でも思うので、そこは本当に慰めて下さったのだろうなあ、と思う。むしろ、そんな、少し口をきいただけの私のことを、本当に気にかけて下さったんだなあ、と、そこが嬉しかったし、今でも大変有難く思い返す。

 

そして、やはり今思い返すと、私みたいな若手(※当時)ぺーぺーの発表にも、有名な先生が来てくださることはけっこうあった気がする。

 

ポスター発表でシミュレーション関係をやったら、その本のご著者のAkcakaya先生が、ビール片手にいきなりいらしたこともあったな……(※外国の学会では、発表のコアタイムとぶつけて、立食パーティ的な催しがある)

 

基本的に外国にいらっしゃる先生は、英語ネイティブではない私達みたいな学生にも、かえってとても分かりやすい英語を使ってくださる印象がある。そして、質疑応答の時とかも、こちらがきちんと表現できていない部分まで汲んで下さるので、本当にありがたい。

 

今、できれば再び、大学院に戻って、自分のやってきたことを一つの形にしたいと考えている。もし、戻れたならば、やはりまた国際学会での発表はやってみたいなーと思っている。今はオンラインの学会も多く、それはそれで自分の新たな挑戦になるので、そちらも国内外を問わず是非トライしてみたい、と考えている。

 

自分の研究について、また、自分の言葉で語れる日が来るといいな、と思っている。

個体群生態学者・桐谷圭治先生との思い出

私は、自分のことを「アホだ」と思うことが多い。思い込みが強く、思い込みに固執し、頑固で融通がきかない。方向転換が苦手で、知的な軽やかさを持てない。ただ、私の人生にとって、本当に幸運だと思うのは、そんな私にでも、優しく、厳しく、粘り強く、付き合って下さる先生がいてくださったことだと思う。


桐谷圭治先生は、私にとっては個体群生態学の先生だ。いつの間にかWikipediaで記事ができていて、すごく華やかなお話や経歴なんかがたくさん書いてあって、私なんかでは、とても存じ上げないようなお話などもあって、とてもびっくりした。ただ、なにかこう、それは私にとっては、納得するようなところもあり、そうでないようなところもあった。

 

確かに、桐谷先生は、本当に素晴らしい先生だし、立派な、すごい研究者だったと思う。ただ、そういった「素晴らしい」部分が強く打ち出されて、「畏れ多い」「近づき難い」ような印象になってしまうと、それはそれで、少し違うような気がしてしまう。私などの立場で申し上げるのも何なのだけれど、桐谷先生は私なんかにも本当に「寄り添って下さる」「教育をしようとして下さる」先生であったように思っている。

 

桐谷先生から学ぶべきことはたくさんたくさんあった。桐谷先生のご著書はそれこそ山のようにある。そして、直接的にも、お会いしてお話ししたりして、私は桐谷先生からたくさんのものをいただいた。しかし、それではまだ全然足りなかった、と思う。もっとお目にかかって、問うて、答えて、お話をして、たくさんのものをいただくべきだった、と思う。

 

今、お亡くなりになっているのが、本当に悔やまれるし、辛い。それは、日高敏隆先生だって同じだ。生きている「師」に、どんどん接して、どんどん問い答え、たくさんのものを得ていきたい。そうすると、おそらくきっと自分の「月」がはっきり見えてくるのではないかと思う。「師」には長生きしてほしいな、としみじみ思う。


私が存じている桐谷先生は、いつも淡々と、飄々と、涼やかにいらした先生のように思える。私が何か喋ろうとした時には、大きな両の目でひたと見据えながら、静かに聞いて下さった。私のつまらない考えでも、あ、今、確かに桐谷先生は「聞いて下さっている」という確信を持ちながら、安心して話すことができた。

 

そして、柔らかな口調でご自身の考えを教えて下さる。しかし、私が大きく間違っているような時は、その柔らかな口調を崩さないまま、本質としては「ナタで叩き割るような」ご指摘を下さることがあった。私は、その桐谷先生のスタンスが、僭越ながら大変「学者らしい」ように思えて、大好きだった。


私が最初に、学会でお目にかかった時から、既にご高齢(おそらく70代後半でいらした)だったように思う。でも全然、バイタリティ的にも気持ちの上でも、いつも前向きに没頭されるように研究をなさっていたのではないかと思う。

 

桐谷先生がちょうどご興味のあった内容と近い研究をしている、ということで、桐谷先生が大変情熱をもって「共同研究をしないか」と、私の後輩を誘われたこともあった(私は、遠慮なく後輩に嫉妬した)。桐谷先生は、その時おそらく80歳ぐらいにはなられていらっしゃったと思うのだけれど、もう本当に、いつでも研究の事を専一に考えていらしてるのだな、とこっちにも伝わってくるような感じだった。

 

私自身は自分の研究テーマでの必要があって、複数の学会で発表したりしていたのだけれど、桐谷先生とはなぜか、行く先々の学会でお目にかかった。


桐谷先生にお目にかかった最初の学会では、私のポスター発表の最中にいきなり桐谷先生はお見えになった。少し緊張しながらも、なんとか説明をやりとげた、と思う。

 

コメントをいただけるかと思ったのだけれど、桐谷先生は、私の発表の内容には触れなかった。厚かましくも、重ねてお願いすると、ただ、淡々とした口調で(しかし少し嫌そうに)「もっと他の人に見てもらって、ちゃんとディスカッションをして、作りなさい」とだけ、おっしゃった。

 

「論ずるに値せず」だ。これは本当にこたえた……。


次の別の学会で、内容をそれなりに練り直し、口頭発表をすることにした。口頭発表はPowerPointのスライドショーを使っての発表なので、部屋の照明を落として発表する。桐谷先生は、私の発表の時にほぼ最前列で聞いて下さっていた。そのため、暗い部屋の中でも桐谷先生の表情ははっきり見えた。桐谷先生は、私の発表を聞きながら大変難しい顔をなさっていた。質疑応答の時も、特にコメントはなかった。


そして三度目の発表に挑む。今度は練りに練ってチャレンジした。(この時に「ちょっと、ごもじもじさんの女子力が見たいな~。女子力高いポスター、作って下さいよ」と言われたんだけど、それはまた別の物語)本とかも買ったな……まだ「図書館で取り寄せられる」という知恵がなかった……。

 

ポスター発表形式は、説明のため、ずっとポスターの前に立っていたので、お昼のために少し抜けた。サンドイッチを食べるためにベンチに腰掛け、発表疲れもあって少しぼんやりしていた。

 

サンドイッチをかじっていると、足早に向こうから桐谷先生が近づいてきた。私のポスターの縮小版をお持ちで、桐谷先生は私を見ると「君を探していた」と仰った。

 

「この発表内容の説明が聞きたい。詳しく聞かせてほしい」

 

桐谷先生は、私の隣にお座りになって、熱心に私の発表内表を聞いて下さった。私もまた、一生懸命ご説明申し上げたように思う。(そして、いつの間にか私のさらに横に後輩がやってきて、ちゃっかり二人のやり取りを聞いていた)ご説明申し上げている最中、大きなシンポジウムがひとつ終わったらしく、目の前をたくさんの人たちが往来していく。恥ずかしい……正直、結構恥ずかしいものはあったが、かまうもんか!とそのまま説明を続けた。

 

私の説明が済んで、桐谷先生からは少し質問があり、また、私の作成した表をとても褒めて下さった。

 

「もしよかったら、これを今度の国際学会の発表に使いたい。君の名前は必ず出すので、できれば使わせてほしい」

 

多分、これは、私ごとき木っ端大学院生としてみたら、最上級のお褒めの言葉だったのではないかと思う。

 

ただ、私は本当に馬鹿だったので、「大変申し訳ありませんが、それはできません」と断ってしまった。当時の指導教官が大変怖かった、ということもある。桐谷先生は「そうか」と大変残念そうになさりながらも、その当時、ご自身が取り組まれていた研究の内容を話して下さった。お家の側にカブトムシが飛んで来られることから、その個体数を推定しつつ、「レジームシフト」という概念についてお考えでいらした。その考えと、私の図表がちょうどたまたま合致するとのお話で、それで、国際学会のお話をお考えだったとのことだった。

 

それを伺った時は本当に、あ、これは「一粒の砂の中に世界を」だ。こんな身近な、ささやかなことから、どんどん世界を広げられるのだ、さすがに長く研究をお続けになられて、第一線に常にいらっしゃる方は違うな、としみじみ思った。


また、そういった研究の場とは別に、懇親会で桐谷先生に直接お喋りをする機会が多かったのは、大変幸運なことだった。懇親会での桐谷先生は、またちょっと違う感じで、もっとさらに気さくな感じで接して下さったように思う。私の指導教官曰く、桐谷先生は普段「腰に軍手をくくりつけて、長靴を履きながらさっそうと歩き回る」というお話で、それはイメージとして、かえって洒脱な感じにさえ思えた。たくさんたくさんお話をした。特に覚えているのは、


「一日一文、書いていくでしょう? 365日経つと、365文になっている。そうするとね、それは論文になるんだよ」


というお話で、その時はそうか、そういうものか、ぐらいの感じで伺ったのだけれど、今となってみたら、とてもとても大事なことを、私に教えて下さっていたのだな、と分かる。何であったとしても、諦めずに少しずつでも続ければ、やがて必ずそれは完成するのだ、と仰りたかったのではないだろうか。


桐谷先生からもうひとついただいた、大事な言葉がある。いつの時だったか、桐谷先生がしみじみと、私に向かって


「あんたは、面白い子だ」


という意味合いのことを仰って下さった。多分、とても褒めて下さったのではないか……とは思う。嫌なニュアンスはなかった……気はする……。ただ、私には、自分のその「面白い」の中身がよく分かっていない。日高敏隆先生が仰って下さったような「(研究が)面白い」ともまた別の意味合いがありそうな気がする。まだ自分のその「面白い」の中身は見えてきてはいないけれど、自分の「面白い」をたくさんたくさん集めたり書いたりしていきながら、探っていきたいな、と思っている。

電子の海には、「森」がある。ーCyberforestの取り組みー

大きな大きな、このインターネットの世界の中で、実は今もゆっくりと「森」が育っている。その「森」の名前は“Cyberforest”(サイバーフォレスト)という。


例えば、もしあなたが望みさえすれば、今、ここに居ながらにして、「コルカタの森で降っている雨の音」を聞くことができる。また、イギリスの森の中で、明け方に知らない鳥のさえずる声を聞けるかもしれない。あるいは、運が良ければ、山中湖の森の中のシカが、角で競り合う音を聞くことがあるかもしれない。


http://locusonus.org/soundmap/051/ (世界の音・Live配信)
http://bit.ly/2KhmU3M (日本の森の音・Live配信)


とっておきの「森の音」を切り出したものもある。早朝の鳥の声、モリアオガエルと風の音、虫の声……
https://lnk.to/cyberforest_album001


今の森の状況を、この目で眺めることだってできる。北海道の森の中の、倒木の様子はどうだろう。秩父では、カスミザクラが咲いただろうか。
https://cf4ee.jp/ (Cyberforest ライブモニタリング)


本当は、いつだって、世界各地の「森」は、確かに私たちと共に、この地球上に存在している。それは、今この瞬間も変わらない。


しかし、私たちはその存在を、自分の生活の中で意識することがなかなかできない。特に、都市部に生活する人にとっては、「木」「林」はともかく、生活の中で「森」を体感することは、ほぼない、と言ってもいいのではないだろうか。


Cyberforestは、電子の海を通じ、あなたと、豊かで広大な自然の森をリアルタイムで繋ぐ試みのひとつだ。


Cyberforestによって、世界中に散らばって存在している「森」の音・「森」の映像を、共時的に体感することができる。その時、「地球上のあまねくすべての場所、すべての自然環境は、確かに今、ここに自分と繋がってある。存在している」という感覚を、実感・身体感覚として得ることができる。この感覚を「全球感覚」(a sense of globe)と呼ぶ。


「全球感覚」を体感することで、自分の中の知識が繋がっていき、知識が「心で」理解できるようになる。アメリカの森の中でフクロウが鳴いている。そうか、まだ、夜なんだ。こちらは昼なのに。時差は、こんなにもあるのか。


そして、疑問が出てくる。フクロウがいるのなら、その餌となるネズミなんかもいるはずだ。森はどのぐらい広いのだろう? 他の鳥はいるのだろうか? どんな木が茂り、どんな植物が生えているのだろうか?


さらには、想像するようになる。森の深さ、森全体の生き物、森の周囲の風景……

そして、私たちの想像力は、私たちを「まだ見ぬ先」に繋げてくれる。


「空間の共時性」の先にあるのは、「時間の超越」だ。


Cyberforestでは、自然の森の音・映像をデータ化し、長期的に保管している。
その始まりは1995年、およそ四半世紀もの蓄積がある。

その中には、北海道の森の中で、倒木を中心とした風景をただひたすらに映しているものもある。しかし、何のために?

 
生態学の理論のひとつに、「倒木更新」というものがある。


森の「新陳代謝」はどのように行われるのか、森を構成している古い木と新しい木は、どのようにして入れ替わっているのか、についての理論だ。


森は、たくさんの木の集まりで構成されている。外から見ると、いわゆる「森」の外側・外観を形成しているのが、高い高い木々であることがわかる。


しかし、木も生き物であるため、どんなに高いりっぱな木であったとしても、やがて枯れる。枯れたからには、森が維持できなくなってしまうはずだ。しかし、動かざること……は山だが、森だって、実際には常に小揺るぎもせず、外形を保ったまま、確固として存在している。


ということは、森を構成している木々は入れ替わる、すなわち、古い木々が枯れたら、新しい木々に入れ替わっているはずだ。


その「木々の入れ替わり」に重要な役割をはたすのが、「古い木の倒木」だ。


倒れてしまった古木の上に、木々が種を落とし、それが芽吹く。森林の地表にまかれた種より、倒木の上の種のほうがずっと良い条件で素早く大きく育つことができる。なぜなら、倒木は高さがあるため、種から出た芽は他の下草に邪魔されず、のびのび日光を浴びて大きく育つことができる。また、倒木は若い苗にとって良い栄養ともなり、保水効果も高い。


そのため、倒木をもとにして、新たな木々がすくすくと成長していき、倒れた倒木の穴を埋めることになる。これを「倒木更新」と呼ぶ。

 


しかし、実際には、森のその「新陳代謝」「森の木々が新旧入れ替わっていくところ」は、なかなか観察されにくい。


というのも、あまりにも時間スケールが大きく、雄大なため(何十年、何百年もかかる!)だ。ひとりの人間の人生に比すると、あまりにも長過ぎる。


だったら、どうするか。


その過程を「機械」に観察させればいい。


機械なら、淡々と疲れもせずに映像をモニタリングできるし、その木々の更新の過程を、リアルなデータとして蓄積していくことができる。


そして、それこそ、担当する人が引き継ぎ、継続していけるので、何十年、何百年を超えることができる。

 


最初、お話を伺ったとき、なんというスケール!と、大変感動した。


そして、「木々の更新の過程の観察には、カメラを使えばいい」ということについて、もしかすると思いつくことはできるかもしれない。


しかし、それを実行しようと思い、実際にやり遂げること・やり続けることは、それこそものすごい難事業だ。


ただ、カメラやマイクを設置しているだけ、ただデータを保管しているだけでは続けられない。


森の中は、それこそ「自然環境」であるため、どうしても機材に対するトラブルが起きてしまう。


CyberforestのグループのSNSでは、たまに、使っているカメラなどの「障害情報」がアナウンスされてくる。


「積雪で、マイクが落ちてしまったので、しばらく配信の音が止まります」
「濃霧で結露したため、カメラが見えない時間が少し続きます」等々……


そして、そのたびに、スタッフの方々が深い深い森である現地に行かれたり、現地におられるスタッフの方が下草をかき分けつつ森の中に分け入って、機械の故障を直している。そして、また何事もなかったかのように、音や映像を私達に届け、データを蓄積していっている。


これを、延々、延々、やり続けられている。

 


先程、「25年、四半世紀」と、さらっと書いてしまったが、内情は、このような不断の努力、絶え間ない注意の継続で支えられている。


そこに底流としてある「善いものを伝えよう」「善いものを残しておこう」という強い意志が、大変僭越ながら、本当に素晴らしいなあ、と思っている。

 


また、その貴重な森の観察データの蓄積は「思ってもみない方向で」今後、利用されていくかもしれない。


Cyberforestの測定地点のひとつに、奥秩父の森を、外側からずっと映し続けているものがある。


それこそ、ただ延々、森を外から写し続けているだけ、と見る向きもあるかもしれない。


しかし例えば、私が研究室にお伺いしていた時期に、修士の学生さんが、その画像を使って素敵な研究をしていた。 


なんと「地球温暖化」についての研究だった。


撮影されていた映像には「カスミザクラ」が写っている。そのカスミザクラが、「いつ咲いたのか」を、16年間分解析していた。


仮説としては「地球温暖化により、カスミザクラの開花時期がどんどん早まっているのではないか」というお話だった。


ただ、データ年数が足りなかった部分があるとのお話だったので、今後、よりデータが蓄積されていくことにより、さらなる新たな展開に繋がるかもしれない。


私が知っているのはその使い方だが、今後、もっと他のアイディアで、どんどんその「画像」「映像」「音声」を利用していけるかもしれない。きっとそうだろう。

 


この「Cyberforest」を主催されておられた、斎藤 馨先生は、この3月で東京大学をご退官される。

 


Cyberforest - a sense of globe - | Kaoru Saito | TEDxUTokyo

 


私は、斎藤先生には大変にお世話になり、また本当に良くしていただいたので、ご退官に対しては、とても強い思いがある。


私は、大学院生時代に、斎藤先生の論文を拝見し、電子機器とフィールドワークの融合的な部分や先進性に大変心ひかれた。加えて、なにかとても「自由さ」のようなものを感じて、ぜひお話を伺いたいなと思った。


HPを拝見すると「ゼミ参加自由」(※当時)とのお話だったので、即座にメールを送らせていただいた。斎藤先生は、もう本当に海のものとも山のものともつかない怪しい学生の私を、快くゼミに参加させて下さった。


斎藤研のゼミの、のびのびとした空気は、当時自分の所属している研究室で感じていた閉塞性に、大きな風穴をあけるようなところがあり、毎週楽しみにしていた。


大学院をやめたあと、子育てを始めるまでの間も、ゼミには参加させていただけたのも、本当にありがたかったなあ、と思う。出産前の大きなおなかをゆっさゆっさしながらゼミ室に入り、「面白いなあ面白いなあ」と思いながら、毎週学生さんや先生方の研究のお話を聞けたのは、本当に幸せな時間だった、と今でも大変懐かしく思う。


また、斎藤先生からは、研究における有益なアドバイスはもちろんのこと、素敵な本のご紹介などもいただいた。


斎藤先生から、幸田文の短編「木」中の「えぞ松の更新」を教えていただいて拝読した。きりっとしながらも、少し浮き立つような筆致で、倒木更新の様子が描かれている。(※ちなみに、私に子どもができて「動画ばっかり見てー……」みたいに愚痴っていたら、大変素晴らしい「絵本の手引書」までご紹介くださり……(「絵本が目をさますとき」長谷川摂子))斎藤先生の、広やかさをいただいたなあ、と、今でも大変ありがたく感じている。


だからこそ、本当は本稿タイトルにも、斎藤先生のお名前をばばーんと入れたかったのだけれど、私に……なにかこう……謎の「照れ」があり……。


ただ、Cyberforestは今後も素晴らしい先生方に引き継がれて存続していくので、Cyberforestの紹介としては、このタイトルで良いのかな……?どうだろう……?という気がしている。


電子の海を通じて、森が永遠に保管されていく。


そして、将来の人たちに、確かなデータとして手渡すことができる。


その蓄積によって、今、この瞬間ではまだわからないような、とても素晴らしい発見に繋がっていくかもしれない。


「将来の人たちに託す」「新たな世代に手渡す」という「未来を信じる」ことで、Cyberforestは、おそらくかけがえのない、素晴らしいものになるだろう、と、私は思っているし、信じてもいる。

動物行動学者・日高敏隆先生の思い出

自分でもよく分からない衝動に突き動かされ、なんとなく、そう本当に「なんとなく」で書きたくなった……。そして、どこに書いてもいいのかがわからず、とりあえずここに書いていこうかな的な。

 

いやもう本当に、正直に書きますと、直近までグダグダな状況に陥っていたことから、メンタルに大変悪い影響があり……いや今は回復の途上にはあるのだけれど、ちょっとこう、ここで勉強とか研究とかへのモチベーションを上げていくためにも、素敵な先生方との出会いとか思い出とかを、ガンガン地層から発掘していきたいな的な所存です。

 

日高敏隆先生はもう……言わずと知れた動物行動学の大家オブ大家であり、ご著書もそれはそれはもう多数あり(しかも、文章がとびきり素敵で……ほんとどういうことなの……天は何物(なんぶつ)を与えるの……)、でも、たまたま、ほんの一瞬とはいえ、私は直接ご指導を受けることができた。そしてその時、日高先生は、本当に優しく、また、確かな指針を私に与えて下さった。ちょっと、その時のことを思い出しながら、書いていってみたいと思う。

 

むかしむかしのその昔。

私は、動物行動学はズブのド素人・駆け出しも駆け出しの大学院生、という状況にも関わらず、何故か日本動物行動学会で筆頭著者としてポスター発表をしていた。

 

まあそういう、不思議な状況って、あるよね……あるある……(遠い目)。非力な大学院生に何ができようか……今、もう、そんな辛い状況に学生が追い込まれたりとかしない世界になってるといいな……

 

いやもう本当に、動物行動学の基礎知識なんか、スッカスッカの状況で放りこまれたので……まあ分からない。当然のように、全く分からない。それでもなんとか、データをそれなりの研究っぽい形にして、発表にはこぎつけられたのだけれど……「とにかくちゃんとした形にして発表しろ」という指示はあるのに何も指針がない、という状況は、本当に辛かった。

 

当然のように、自分の研究・発表する内容に自信なんかあるはずもない。ひたすら「早く時間が過ぎないかな」という気持ちで、自分の研究のポスター前に突っ立っていた。(※学会の「ポスター発表」という形式は、自分の研究内容を一枚の大きなポスター(A0サイズが多いかな…)にまとめ、見に来てくれた人に、それを口頭で説明していく発表形式です)

 

日高先生が私のポスターの前まで、どのようにしてお越しになったのかは、あまり覚えていない。気づいたら、ふっといらしたような気がする。あっ日高先生だ!日高先生が私のポスターをご覧になっている!と思った瞬間、頭の中は真っ白だったけど、とにかく!とにかく丁寧に説明しなくては!と思った。私が少し説明したら、すぐに日高先生が質問されて、そこからはほんの少しだけリラックスして、説明を続けることができた。

 

日高先生は「面白いねえ」と言って下さり、また、いくつかの質問と重要なご示唆を私に下さった。

 

さらにはまた、他の大家(たいか)の先生方が近くを通ろうとするたびに、日高先生は「この子の研究、面白いから、ちょっと一緒に聞いていってごらんよ」と、お一人お一人にお声をかけて下さった。そうやって、「なんだなんだ」と先生方が集まって聞きにきて下さり、「あそこはああだ」「ここはこういう解析もある」……等々の、大変白熱したディスカッションを伺うことができた(もうほんと、私なんか発表者本人なのに、なぜか「そうなんだ……そうなんだ……」とひたすら聞きながらメモをとるばかりだった……)(むしろ、私のポスターを指しながら、私に説明して下さる先生もいらした……)

 

学会から帰ってからしばらくして、所属していた研究室で、ある賞に応募する話になった。自分の研究について、ひとりひとりが賞に応募する形で、「自由参加」と言う名の「義務」だった(よくあるよくある……)。方向的に動物行動学向きの話だったのだけれど、前述のように、私には動物行動学のベースなんかない。でも、賞には応募しなければならない。手持ちの武器はついこの前発表したネタしかない。私はそれをベースにしながら、日高先生のご示唆や、先生方のディスカッションをひたすら思い返し盛り込み、また自分の考えや解析を練り直して、なんとか期日までに提出できた。

 

そして私は、自分が動物行動学の専門でもないにもかかわらず、その賞をとることができた。自分の研究で、賞をもらえる、評価される、という経験は、本当に嬉しく、支えになるものだった。また、これは本当に、日高先生のおかげであり、先生がお持ちであった、計り知れない「教育」の力だなあ、と思い、今でも感謝している。

 

……もしかすると、私の書き方・話の展開の仕方が非常にまずく、この話は「けっ!結局は最後、自分の自慢に持っていきたかっただけの話かよ!」とか、読まれている方に思われるのではないかと、大変危惧しております……。それは……それは私としては大変不本意で……やややや。それでは、それではないです私が言いたいの……。そんなわけで、今考えていることを、以下に書いていこうと思います。

 

多分、私のあの研究なんか、ほんと、そんなに良いところはなかったと思う。何度もしつこく書いて恐縮ですが、私なんか動物行動学の素人オブ素人だし、何よりベースの動物行動学の知識、基本をまるですっ飛ばしてやっていたのだから……。あったとしても、ほんのちょっとだったとは思う(今考えてみると、もしなんとかそれでも良いところを捻り出すとすると、生物保全×個体群×動物行動学、的な、色々な分野のコラボになっているところは面白かったのではないかな?と思う……そのぐらい……)。でも、それでも、その、そんな研究を基にして、賞を取ることができた。

 

今分かるのは、むしろそれこそが、日高先生の「教育」の力だったんだ……と、そう思う。あの、たった20分か30分かそこら、私が日高先生から直接ご指導を受けることができたのは、そのわずかな時間であったのだけれど、それでも、そんな成果が叩き出せるぐらい、日高先生の指導の力がすごかったのだと思う。

 

まず、私の研究にあった、ほんの少し、本当に少しだけの「いいところ」を見つけて下さったのだと思う。よーく目をこらさないと見つからないような、かすかな、かすかな「いいところ」だったはずだ。でも、日高先生の濃やかで細やかな観察力が、それを確かに見つけ出して下さったのだと思う。

 

そしてそれを、まるで分かっていない私にも分かるような形で、引っ張り出し、提示し、丁寧に説明して下さった。その「言語化の力」「説明の力」で、素人の私相手に理解させるのは、本当にすごいことだと思う。それは、やはりご著書の読みやすさや美文と、根を同じくする部分があるのかもしれない。

 

他の大家(たいか)の先生方を呼び止めて下さって、どんどんどんどん議論に巻き込んでいったのも、大変ありがたいご配慮だったと思う。日高先生の動物行動学の本には、よく関わられている「人」のお話も出てくる。「今こんな面白い研究をしているよ!」とお弟子の先生の研究を文中で紹介されていたり……人との関わりが、本当に上手でいらしたのだと、僭越ながら思う。

 

そして、何より私が一番嬉しかったのが、日高先生が本当に楽しそうに聞いて下さったことで……。あんな偉い先生なのに、全然、「圧」とか「上から」とかがなかった。すごく、とてもフラットに、軽やかに、聞いたり尋ねたりして下さる……ほんと、すごく嬉しかったし、何より楽しかったなあ……。賞が取れたことは、とてもとても強い喜びではあるけれど、日高先生の「面白いねえ」が、やっぱり私にとっては、何よりとっときの、ぴっかぴかの「一等賞」だったと思う。直接のお弟子の方は、これをしょっちゅう聞かせてもらえるのかと思うと、本当にうらやましかった。

 

日高先生には、もう一度だけお目にかかることがあった。別の学会の懇親会で、再びお会いすることができたので、賞のご報告とお礼を直接申し上げることができた(名刺をいただいた!)。しかし、それから程なくして、日高先生のご訃報を聞いた。私が人生で、日高先生にお会いできたのは、おそらく一時間にも満たない、たった二回きりだった。

 

「教育とは、学習者の長所・強みを伸ばすことだ」的な言説がある。私は、日高先生のおかげで確かに「伸びた」のだとは思う。こんな素人を、いきなり研究で賞を獲れるほどに伸ばすことが出来るのだから、日高先生の「教育の力」は、本当にすさまじいのだと思う。しかし、先ほど書いたのは、あくまで、私が理解している範囲での日高先生の「凄さ」でしかない。実際には、もっともっと「凄かった」に違いない。でも、もう直接お目にかかることはできない。まだわかっていないことが、たくさんあるにも関わらず。

 

読書猿さんのご著書「独学大全」に、「私淑」という項目がある。実際に会うことができない、しかし尊敬する人を師として仰ぎ、模範として学ぶことを言う(P182)とある。私淑するには、その人物の像を具体的・確かなものにするために、情報を集める(P178)。そして、その仮想の師に、折に触れて問いかける(師匠ならどうするか?)ことで、学びの指針とする(P181)のだそうだ。

 

幸い、日高先生には、膨大な数のご著書が残されている。私も少しずつ集めてはいるものの、あまりに多過ぎて、なかなかコンプリート!とはいかない。しかし、逆に言えば、それだけ日高先生の「情報が残っている」ということでもある。集め、読み、理解していくことで、私の中の「日高先生」の像が、確たるものになればいいな、と思っている。そして、私の中の日高先生は、なんと言って下さるだろうか、と、今から楽しみにしている。

 

同じく、独学大全の「私淑」の項には、こんな言葉もある。

 

「我々を教導するのは、師の現にある姿でなく、そうあろうとする姿である。つまり我々が本当に師事すべきなのは、相手が実在の肉体を持った現実の人物である場合ですら、まだ現存していない架空の師であるのだ。『月を指して指を認む』(月を指差して教えたのに月を見ないで指ばかり見ている、の意)の愚を犯してはならない。師匠という「指」ではなく、師匠が見つめるその先(「月」)を見よ」(P184)

 

これはなかなか難しい……まだ今のところ、私の「月」は見えてきていない。では、日高先生の「指」を見ているのか……?いや指も多分見えていないよなあ……分からないけれど、ただ、少なくとも、私にも、そこに「月がある」ことだけは確実に分かっているので、いつか見えるといいなあ、と最近は思っている。

 

まず、今は、手持ちのこの本、今、読書ノートをつけているこの本(「生物から見た世界」ヤーコプ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著) 日高敏隆,野田保之(訳) 思索社)から、ゆっくり読んでいこうと思う。でもこの本ってば、実は……日高先生のご著書にあるまじき難易度で……。訳者の日高先生ご自身が「邦訳が、すごく難しかった」って明言なさっているレベル……どうして……どうしてそんなところから始めてしまったのか…………読みたかった……どうしても読みたかったんや……知りたくて……日高先生ですら「難しい」っておっしゃっているのに、それにもかかわらず日高先生ご自身が邦訳に取り組んだ(※しかも版元変えて2回も)その内容を……それって、むちゃくちゃ重要な事が書いてある、ってことでは!?という期待がある。

 

……まあとりあえずは、毎日ちょっとずつ、続けていこうと思う。始めたんだから、続けてさえいれば、いずれ終わるさ!そして、まだまだ沢山、山のようにある日高先生の本を、ゆっくり読んでいきたいと思う。

 

月は、出ているか。

 

 

 

 

 

 

プラネットアース イラストで学ぶ生態系のしくみ/レイチェル・イグノトフスキー(著)・山室真澄(監訳)・東辻千枝子(訳)

I

 

 


綺麗な表紙につられて、あなたはこの本を手に取る。プラネットアース、生態系、なるほど。ペラペラとめくると、鮮やかなイラストがたくさん目に飛び込んでくる。ページごとに気候や地域が分けられていることに気がつく。グレートプレーンズ、インドシナ半島マングローブ、アルプス、知らない地域、知らない気候、たくさん、たくさん、たくさん。

思っていたより説明が多く、字も詰まっている。あなたは美しいイラストに集中する。イラストを丁寧に眺めていくと、それぞれの地域に、数多くの生き物がいることがわかる。ジャッカル、カワラタケ、サソリ、オリーブ、ノガン、マダニ、ブダイ。もっと、たくさん、たくさん、たくさん。

さらによく見ると、最初は気づかなかったが、生き物から矢印が出ている。矢印の先端は、絵の中の他の生き物に繋がっている。これは、この生物がこの生物に食べられる、ということだろうか。あなたは、一枚の絵の中に収められている生き物たちが、すべて矢印で繋がっていることに気がつく。これが「系」の意味だろうか、とあなたは思う。

そうやって、あるページが「系」で構成されていることに気がつくと、他のページもすべてそうなっていること、つまり、膨大な生物が各地で 関連して存在していること、そしてそれが何ページにもわたって存在していること、その総体をこの本が収めていること、に気がつく。

さらに、知らない見出しも出てくるかもしれない。炭素の循環、窒素の循環、リンの循環。わからない。わからない。これはいったい、なんだろう。次第にあなたは、たくさん書かれた字の方を、ゆっくり、ゆっくりと読み始める。


もし生態学を全然知らない、でもちょっと興味があるな……という方に最初の一冊を薦めるならば、私はこの本を推したい。


そしてもし、この本の楽しみ方のひとつを私がお伝えできるならば、

「“Don't think, feel.” まずは『考えるな、感じろ』」

「しかるべき後に、ゆっくりと本文を読んでいき、考えていくと、どんどん楽しくなってくる」

になるかもしれない。


まずは、本書をぱらぱらとめくるだけでも、それだけでも充分楽しいのではないだろうか。なんとなく、とてもいい気持ちになるだろうと思う。本書の随所に存在しているイラストは、本当に素晴らしい。


本書から伝わってくる、この「快い」「気持ちがいい」という感覚は、とても重要なのではないか、と思う。この本によって、これら(生態系、ひいては地球全体)を、体感的に「良きもの」であると読み手に感じさせることができる。なかなかできることではないだろうし、この本のコンセプトの素晴らしさだとも思う。「さあお勉強です!真面目に!楽しんでは駄目!」といった、押し付けに近いような形ではなく、もっと読み手が能動的にすっと入っていける、納得できる形で、もろもろの知見を吸収してほしい、という気持ちを強く感じる。


そしてまた本書では、生物だけではない、生態系自体の多様さも、手応えをもって感じられるように作られているのではないだろうか、と思う。


美しくインパクトのある、生物の写真集・映像作品は、私たちに自然の素晴らしさ、美しさをダイレクトに伝えてくれる。しかし、「系」そのもの、生物間の関係性を何らかのビジュアル的な形にして表現するのは本当に難しい。しかも、そこに着目しながら、「生態系とはなにか」の全体像を捉えよう、とした本書のような本に巡りあうのは、なかなかない、それこそ「有り難い」本のように思う。


とかく生態系は複雑なので、説明する際には「典型的(?)な食物網」のような形をとってしまう傾向があるように感じられる。イネ科の植物がある、バッタが食べる、それを食べる捕食者がいる、さらに大型の捕食者がいる、ここにキーストーン種、ここにアンブレラ種、分解者をここにおき……のように、簡略化して、一括で説明していきがちではある。「とにかくまずは、仕組みをきちんと、シンプルに理解してほしい」で、通常は簡単なモデル図示で済ませてしまわざるを得ない。


しかし、本来の生態系は画一的に説明できるものではなく、むしろ地域ごとの複雑さや多様性に富んでいる。むしろその煩雑さ、多様さこそを重要視し、真正面から取り組んだのが本書の良さであり、価値の根っこの部分にあたるように思う。各地域の生態系に対して、めりはりのある色彩で何十枚ものイラストを使い、説明してくれている。そして頭のてっぺんから尻尾の先まで、徹頭徹尾この丁寧さ、この密度を維持したまま、本は作り上げられている。なんという力作だろう、と思わずにはいられない。


また、地形や気候区分に配慮しながら、説明する地域を選んでいっているのは、本当に素晴らしく、また細やかだな、と思う。高校の授業で習った「ケッペンの気候区分」を思い出される方もいるかもしれない。植物は気候の影響を直接的に受けるため、そこを基盤に成立する生態系は、地域ごとの特性を反映する形となる。気候・地形の差異が、そのまま生態系の違いとなり、多様多彩な各種の生態系を作っているのが、よくわかる作りになっている。


まあ、でも、あまり肩肘はらずに、連続してぺらぺらめくっているのだけで、本当に十分楽しくなれる。私は、よくそういう読み方をさせてもらっている。世界のかなりの地域を網羅しているため、まるで世界各地をのんびり旅して、各生態系を覗いているような気持ちになってくる。


そうやって、間口を広くとってくれているにもかかわらず、好きな人でも十分に楽しめる内容になっている。生態系?食物網?知ってる知ってる。私のような横着者に対しても、いやいやちゃんとよく見ようよ、と首根っこを掴んでくれて、美麗なイラストで圧倒的な物量を懇切丁寧に粘り強く説明してくれる。


そう、そして一方でこの本は、案外字が多い。イラストを見て「どうですか?興味が出てきましたか?そしたらこちらに、こんなご案内があるんですよ」という感じで、たくさんの説明文が配置されている。そんなに大きな文字ではなく、一方で比較的みっちり書いてあるので、実は読み応えがある。それでいてデザインの邪魔をしない、絶妙なバランスになっている。

そして基本的に、説明内容は腰の座ったあたりから入っていて、「生態系・生物多様性周りだけ」で説明していない。例えば、系統分類学的な本だったら「界門綱目科属種」で始まるであろう場所に「生物圏→バイオーム→生態系→生物群集→個体群→個体」が書いてある。「ここからきちんと説明していきますよ」という宣言のようで、これは唸った。(そして、「生物の分類」そのもののページもある。上記に加えて、ドメインの説明もされている)

また、潜ろうと思ったら、どこまででも潜っていけるであろう手がかり、フックのようなものをたくさん準備してくれている。巻末の用語集には、さりげなく「古細菌」が入っている。これはすごい、と思わされた。確かに古細菌は本文中にほんの少しだけ登場する。しかしおそらく、通常「生態系」「生物多様性」的な本を作ろう、と思った時に、本文でも少ししか触れていないこのような単語をチョイスし、わざわざ紙面を割いて説明はしないような気がする。

古細菌は(一般的な意味合いでの「生き物」として考えられる)真核生物の始祖的な系譜にあるため、確かにとても重要な生物だとは思うのだけれど、どちらかといえば系統分類・進化の文脈で出てくる生き物のように思える。私のような未熟者などは、古細菌が、生態系に対して具体的にどのように関与しているか、なんて、とてもとても上手く説明できない!「なんでそんなややこしい方面に自ら突っ込んでいくの……?生態系で分解者としてふるまう細菌だけ説明すればよくない……?」とさえ思う。しかし、そうではないのだと思う。

この本は、「生態系・生き物全体をどう考えるのか」を主軸に据えて、丁寧に説明してくれている。古細菌も生物として地球上にきちんと、確かに存在している。ならば、説明しなければならない。この、逃げず、無視せず、コンセプトに真っ向から向き合う、手の抜かなさは、本書の本当に素晴らしい点だと思う。

また、もしかすると、この項目を設けておくことで、読み手が「ああ、古細菌っているのか。キーワードに入っているから重要なのだろう。なるほど、じゃあもっと詳しく調べてみよう」と、より深く生物を知るための手がかりにするかもしれない。おそらく、そのように考えて作られているのだと思う。

そして、キーワードにはもちろん、定番中の定番の「生物的/非生物的(環境)」「キーストーン種」「エコトーン」等々も盛り込まれている。本当に素晴らしいバランス感覚で、本書はできている。

また、定番のところから、新しい知見への広がりまで目配りがゆきとどいているのは、やはり新しく出版された本の良さだな、とも思う。都市は生態系と対立する概念!みたいなものは、本当に古くなってしまったなあ、と本書の「都市」の項目を読んでしみじみ思った。

本書では、都市はまず人間の生活に不可欠であること、その中でも他種の野生動物が生活していること、が提示される(最近はこの辺の「都市の中の生物」は、概念としてかなりなじみが出てきて、特に映像作品等々でもよく取り上げられるようになってきているな、という個人的な感想を覚える)。しかし当然のように、都市拡大のための自然地域の破壊は存在している。ならば、都市計画の時点で生態系に配慮・導入することや、再生可能エネルギーを使うことにより、問題は解決するのではないか、と提示する。

都市を人間生活に必要と認めた上で、どう折り合うかを考えていこう、という流れそのものが、近年、主軸に据えられている「持続的な開発」に基づいて話を展開している。もちろん、おそらくこの概念自体も、最前線で取り組んでおられる方からすれば、必ずしも最先端ではないのかもしれない。しかし、新しく定着しつつある最中の概念を中心にして説明を行うのは、それこそ「その先」を目指すために必要な事柄であるように感じられる。


この本の冒頭にはこう書いてある。「あなたがこのページを読んでいる今、アマゾンの熱帯雨林ではジャガーが狩りの真っ最中、サンゴ礁には生き物があふれ、自転車便の配達人はベーグル片手にニューヨーク市内を走っているでしょう。それぞれは無関係なできごとのようですが、実は全ての生き物には、あなたが思っているよりもずっと共通点が多いのです」


「行ったことのない土地、見たことのない生き物たち」に想いを馳せるのは、とても楽しい。しかし実は、自分と関係ない場所ではなく、確かに自分はそこと「繋がっている」。本書はこれを、体感覚として認識させてくれている。


本書は、ビロードの敷かれた箱に入ったおいしいチョコレートのように、少しずつつまんで楽しんでいくのがいいかもしれない。そしてチョコレートよりもなお良いのは、なくなったりしないことだ(そしてたくさん摂取しても、太ったり身体が悪くなったりはしない!)。ぜひ手元に置いて、ちょっとずつ、そして末永く、楽しんでほしい本だと思う。