ひたすら生態学(とその近隣)の本を推していくブログ

五文字では足りなかった……!情念で押していく所存です。みんな!ここに沼があるよ!

電子の海には、「森」がある。ーCyberforestの取り組みー

大きな大きな、このインターネットの世界の中で、実は今もゆっくりと「森」が育っている。その「森」の名前は“Cyberforest”(サイバーフォレスト)という。


例えば、もしあなたが望みさえすれば、今、ここに居ながらにして、「コルカタの森で降っている雨の音」を聞くことができる。また、イギリスの森の中で、明け方に知らない鳥のさえずる声を聞けるかもしれない。あるいは、運が良ければ、山中湖の森の中のシカが、角で競り合う音を聞くことがあるかもしれない。


http://locusonus.org/soundmap/051/ (世界の音・Live配信)
http://bit.ly/2KhmU3M (日本の森の音・Live配信)


とっておきの「森の音」を切り出したものもある。早朝の鳥の声、モリアオガエルと風の音、虫の声……
https://lnk.to/cyberforest_album001


今の森の状況を、この目で眺めることだってできる。北海道の森の中の、倒木の様子はどうだろう。秩父では、カスミザクラが咲いただろうか。
https://cf4ee.jp/ (Cyberforest ライブモニタリング)


本当は、いつだって、世界各地の「森」は、確かに私たちと共に、この地球上に存在している。それは、今この瞬間も変わらない。


しかし、私たちはその存在を、自分の生活の中で意識することがなかなかできない。特に、都市部に生活する人にとっては、「木」「林」はともかく、生活の中で「森」を体感することは、ほぼない、と言ってもいいのではないだろうか。


Cyberforestは、電子の海を通じ、あなたと、豊かで広大な自然の森をリアルタイムで繋ぐ試みのひとつだ。


Cyberforestによって、世界中に散らばって存在している「森」の音・「森」の映像を、共時的に体感することができる。その時、「地球上のあまねくすべての場所、すべての自然環境は、確かに今、ここに自分と繋がってある。存在している」という感覚を、実感・身体感覚として得ることができる。この感覚を「全球感覚」(a sense of globe)と呼ぶ。


「全球感覚」を体感することで、自分の中の知識が繋がっていき、知識が「心で」理解できるようになる。アメリカの森の中でフクロウが鳴いている。そうか、まだ、夜なんだ。こちらは昼なのに。時差は、こんなにもあるのか。


そして、疑問が出てくる。フクロウがいるのなら、その餌となるネズミなんかもいるはずだ。森はどのぐらい広いのだろう? 他の鳥はいるのだろうか? どんな木が茂り、どんな植物が生えているのだろうか?


さらには、想像するようになる。森の深さ、森全体の生き物、森の周囲の風景……

そして、私たちの想像力は、私たちを「まだ見ぬ先」に繋げてくれる。


「空間の共時性」の先にあるのは、「時間の超越」だ。


Cyberforestでは、自然の森の音・映像をデータ化し、長期的に保管している。
その始まりは1995年、およそ四半世紀もの蓄積がある。

その中には、北海道の森の中で、倒木を中心とした風景をただひたすらに映しているものもある。しかし、何のために?

 
生態学の理論のひとつに、「倒木更新」というものがある。


森の「新陳代謝」はどのように行われるのか、森を構成している古い木と新しい木は、どのようにして入れ替わっているのか、についての理論だ。


森は、たくさんの木の集まりで構成されている。外から見ると、いわゆる「森」の外側・外観を形成しているのが、高い高い木々であることがわかる。


しかし、木も生き物であるため、どんなに高いりっぱな木であったとしても、やがて枯れる。枯れたからには、森が維持できなくなってしまうはずだ。しかし、動かざること……は山だが、森だって、実際には常に小揺るぎもせず、外形を保ったまま、確固として存在している。


ということは、森を構成している木々は入れ替わる、すなわち、古い木々が枯れたら、新しい木々に入れ替わっているはずだ。


その「木々の入れ替わり」に重要な役割をはたすのが、「古い木の倒木」だ。


倒れてしまった古木の上に、木々が種を落とし、それが芽吹く。森林の地表にまかれた種より、倒木の上の種のほうがずっと良い条件で素早く大きく育つことができる。なぜなら、倒木は高さがあるため、種から出た芽は他の下草に邪魔されず、のびのび日光を浴びて大きく育つことができる。また、倒木は若い苗にとって良い栄養ともなり、保水効果も高い。


そのため、倒木をもとにして、新たな木々がすくすくと成長していき、倒れた倒木の穴を埋めることになる。これを「倒木更新」と呼ぶ。

 


しかし、実際には、森のその「新陳代謝」「森の木々が新旧入れ替わっていくところ」は、なかなか観察されにくい。


というのも、あまりにも時間スケールが大きく、雄大なため(何十年、何百年もかかる!)だ。ひとりの人間の人生に比すると、あまりにも長過ぎる。


だったら、どうするか。


その過程を「機械」に観察させればいい。


機械なら、淡々と疲れもせずに映像をモニタリングできるし、その木々の更新の過程を、リアルなデータとして蓄積していくことができる。


そして、それこそ、担当する人が引き継ぎ、継続していけるので、何十年、何百年を超えることができる。

 


最初、お話を伺ったとき、なんというスケール!と、大変感動した。


そして、「木々の更新の過程の観察には、カメラを使えばいい」ということについて、もしかすると思いつくことはできるかもしれない。


しかし、それを実行しようと思い、実際にやり遂げること・やり続けることは、それこそものすごい難事業だ。


ただ、カメラやマイクを設置しているだけ、ただデータを保管しているだけでは続けられない。


森の中は、それこそ「自然環境」であるため、どうしても機材に対するトラブルが起きてしまう。


CyberforestのグループのSNSでは、たまに、使っているカメラなどの「障害情報」がアナウンスされてくる。


「積雪で、マイクが落ちてしまったので、しばらく配信の音が止まります」
「濃霧で結露したため、カメラが見えない時間が少し続きます」等々……


そして、そのたびに、スタッフの方々が深い深い森である現地に行かれたり、現地におられるスタッフの方が下草をかき分けつつ森の中に分け入って、機械の故障を直している。そして、また何事もなかったかのように、音や映像を私達に届け、データを蓄積していっている。


これを、延々、延々、やり続けられている。

 


先程、「25年、四半世紀」と、さらっと書いてしまったが、内情は、このような不断の努力、絶え間ない注意の継続で支えられている。


そこに底流としてある「善いものを伝えよう」「善いものを残しておこう」という強い意志が、大変僭越ながら、本当に素晴らしいなあ、と思っている。

 


また、その貴重な森の観察データの蓄積は「思ってもみない方向で」今後、利用されていくかもしれない。


Cyberforestの測定地点のひとつに、奥秩父の森を、外側からずっと映し続けているものがある。


それこそ、ただ延々、森を外から写し続けているだけ、と見る向きもあるかもしれない。


しかし例えば、私が研究室にお伺いしていた時期に、修士の学生さんが、その画像を使って素敵な研究をしていた。 


なんと「地球温暖化」についての研究だった。


撮影されていた映像には「カスミザクラ」が写っている。そのカスミザクラが、「いつ咲いたのか」を、16年間分解析していた。


仮説としては「地球温暖化により、カスミザクラの開花時期がどんどん早まっているのではないか」というお話だった。


ただ、データ年数が足りなかった部分があるとのお話だったので、今後、よりデータが蓄積されていくことにより、さらなる新たな展開に繋がるかもしれない。


私が知っているのはその使い方だが、今後、もっと他のアイディアで、どんどんその「画像」「映像」「音声」を利用していけるかもしれない。きっとそうだろう。

 


この「Cyberforest」を主催されておられた、斎藤 馨先生は、この3月で東京大学をご退官される。

 


Cyberforest - a sense of globe - | Kaoru Saito | TEDxUTokyo

 


私は、斎藤先生には大変にお世話になり、また本当に良くしていただいたので、ご退官に対しては、とても強い思いがある。


私は、大学院生時代に、斎藤先生の論文を拝見し、電子機器とフィールドワークの融合的な部分や先進性に大変心ひかれた。加えて、なにかとても「自由さ」のようなものを感じて、ぜひお話を伺いたいなと思った。


HPを拝見すると「ゼミ参加自由」(※当時)とのお話だったので、即座にメールを送らせていただいた。斎藤先生は、もう本当に海のものとも山のものともつかない怪しい学生の私を、快くゼミに参加させて下さった。


斎藤研のゼミの、のびのびとした空気は、当時自分の所属している研究室で感じていた閉塞性に、大きな風穴をあけるようなところがあり、毎週楽しみにしていた。


大学院をやめたあと、子育てを始めるまでの間も、ゼミには参加させていただけたのも、本当にありがたかったなあ、と思う。出産前の大きなおなかをゆっさゆっさしながらゼミ室に入り、「面白いなあ面白いなあ」と思いながら、毎週学生さんや先生方の研究のお話を聞けたのは、本当に幸せな時間だった、と今でも大変懐かしく思う。


また、斎藤先生からは、研究における有益なアドバイスはもちろんのこと、素敵な本のご紹介などもいただいた。


斎藤先生から、幸田文の短編「木」中の「えぞ松の更新」を教えていただいて拝読した。きりっとしながらも、少し浮き立つような筆致で、倒木更新の様子が描かれている。(※ちなみに、私に子どもができて「動画ばっかり見てー……」みたいに愚痴っていたら、大変素晴らしい「絵本の手引書」までご紹介くださり……(「絵本が目をさますとき」長谷川摂子))斎藤先生の、広やかさをいただいたなあ、と、今でも大変ありがたく感じている。


だからこそ、本当は本稿タイトルにも、斎藤先生のお名前をばばーんと入れたかったのだけれど、私に……なにかこう……謎の「照れ」があり……。


ただ、Cyberforestは今後も素晴らしい先生方に引き継がれて存続していくので、Cyberforestの紹介としては、このタイトルで良いのかな……?どうだろう……?という気がしている。


電子の海を通じて、森が永遠に保管されていく。


そして、将来の人たちに、確かなデータとして手渡すことができる。


その蓄積によって、今、この瞬間ではまだわからないような、とても素晴らしい発見に繋がっていくかもしれない。


「将来の人たちに託す」「新たな世代に手渡す」という「未来を信じる」ことで、Cyberforestは、おそらくかけがえのない、素晴らしいものになるだろう、と、私は思っているし、信じてもいる。

動物行動学者・日高敏隆先生の思い出

自分でもよく分からない衝動に突き動かされ、なんとなく、そう本当に「なんとなく」で書きたくなった……。そして、どこに書いてもいいのかがわからず、とりあえずここに書いていこうかな的な。

 

いやもう本当に、正直に書きますと、直近までグダグダな状況に陥っていたことから、メンタルに大変悪い影響があり……いや今は回復の途上にはあるのだけれど、ちょっとこう、ここで勉強とか研究とかへのモチベーションを上げていくためにも、素敵な先生方との出会いとか思い出とかを、ガンガン地層から発掘していきたいな的な所存です。

 

日高敏隆先生はもう……言わずと知れた動物行動学の大家オブ大家であり、ご著書もそれはそれはもう多数あり(しかも、文章がとびきり素敵で……ほんとどういうことなの……天は何物(なんぶつ)を与えるの……)、でも、たまたま、ほんの一瞬とはいえ、私は直接ご指導を受けることができた。そしてその時、日高先生は、本当に優しく、また、確かな指針を私に与えて下さった。ちょっと、その時のことを思い出しながら、書いていってみたいと思う。

 

むかしむかしのその昔。

私は、動物行動学はズブのド素人・駆け出しも駆け出しの大学院生、という状況にも関わらず、何故か日本動物行動学会で筆頭著者としてポスター発表をしていた。

 

まあそういう、不思議な状況って、あるよね……あるある……(遠い目)。非力な大学院生に何ができようか……今、もう、そんな辛い状況に学生が追い込まれたりとかしない世界になってるといいな……

 

いやもう本当に、動物行動学の基礎知識なんか、スッカスッカの状況で放りこまれたので……まあ分からない。当然のように、全く分からない。それでもなんとか、データをそれなりの研究っぽい形にして、発表にはこぎつけられたのだけれど……「とにかくちゃんとした形にして発表しろ」という指示はあるのに何も指針がない、という状況は、本当に辛かった。

 

当然のように、自分の研究・発表する内容に自信なんかあるはずもない。ひたすら「早く時間が過ぎないかな」という気持ちで、自分の研究のポスター前に突っ立っていた。(※学会の「ポスター発表」という形式は、自分の研究内容を一枚の大きなポスター(A0サイズが多いかな…)にまとめ、見に来てくれた人に、それを口頭で説明していく発表形式です)

 

日高先生が私のポスターの前まで、どのようにしてお越しになったのかは、あまり覚えていない。気づいたら、ふっといらしたような気がする。あっ日高先生だ!日高先生が私のポスターをご覧になっている!と思った瞬間、頭の中は真っ白だったけど、とにかく!とにかく丁寧に説明しなくては!と思った。私が少し説明したら、すぐに日高先生が質問されて、そこからはほんの少しだけリラックスして、説明を続けることができた。

 

日高先生は「面白いねえ」と言って下さり、また、いくつかの質問と重要なご示唆を私に下さった。

 

さらにはまた、他の大家(たいか)の先生方が近くを通ろうとするたびに、日高先生は「この子の研究、面白いから、ちょっと一緒に聞いていってごらんよ」と、お一人お一人にお声をかけて下さった。そうやって、「なんだなんだ」と先生方が集まって聞きにきて下さり、「あそこはああだ」「ここはこういう解析もある」……等々の、大変白熱したディスカッションを伺うことができた(もうほんと、私なんか発表者本人なのに、なぜか「そうなんだ……そうなんだ……」とひたすら聞きながらメモをとるばかりだった……)(むしろ、私のポスターを指しながら、私に説明して下さる先生もいらした……)

 

学会から帰ってからしばらくして、所属していた研究室で、ある賞に応募する話になった。自分の研究について、ひとりひとりが賞に応募する形で、「自由参加」と言う名の「義務」だった(よくあるよくある……)。方向的に動物行動学向きの話だったのだけれど、前述のように、私には動物行動学のベースなんかない。でも、賞には応募しなければならない。手持ちの武器はついこの前発表したネタしかない。私はそれをベースにしながら、日高先生のご示唆や、先生方のディスカッションをひたすら思い返し盛り込み、また自分の考えや解析を練り直して、なんとか期日までに提出できた。

 

そして私は、自分が動物行動学の専門でもないにもかかわらず、その賞をとることができた。自分の研究で、賞をもらえる、評価される、という経験は、本当に嬉しく、支えになるものだった。また、これは本当に、日高先生のおかげであり、先生がお持ちであった、計り知れない「教育」の力だなあ、と思い、今でも感謝している。

 

……もしかすると、私の書き方・話の展開の仕方が非常にまずく、この話は「けっ!結局は最後、自分の自慢に持っていきたかっただけの話かよ!」とか、読まれている方に思われるのではないかと、大変危惧しております……。それは……それは私としては大変不本意で……やややや。それでは、それではないです私が言いたいの……。そんなわけで、今考えていることを、以下に書いていこうと思います。

 

多分、私のあの研究なんか、ほんと、そんなに良いところはなかったと思う。何度もしつこく書いて恐縮ですが、私なんか動物行動学の素人オブ素人だし、何よりベースの動物行動学の知識、基本をまるですっ飛ばしてやっていたのだから……。あったとしても、ほんのちょっとだったとは思う(今考えてみると、もしなんとかそれでも良いところを捻り出すとすると、生物保全×個体群×動物行動学、的な、色々な分野のコラボになっているところは面白かったのではないかな?と思う……そのぐらい……)。でも、それでも、その、そんな研究を基にして、賞を取ることができた。

 

今分かるのは、むしろそれこそが、日高先生の「教育」の力だったんだ……と、そう思う。あの、たった20分か30分かそこら、私が日高先生から直接ご指導を受けることができたのは、そのわずかな時間であったのだけれど、それでも、そんな成果が叩き出せるぐらい、日高先生の指導の力がすごかったのだと思う。

 

まず、私の研究にあった、ほんの少し、本当に少しだけの「いいところ」を見つけて下さったのだと思う。よーく目をこらさないと見つからないような、かすかな、かすかな「いいところ」だったはずだ。でも、日高先生の濃やかで細やかな観察力が、それを確かに見つけ出して下さったのだと思う。

 

そしてそれを、まるで分かっていない私にも分かるような形で、引っ張り出し、提示し、丁寧に説明して下さった。その「言語化の力」「説明の力」で、素人の私相手に理解させるのは、本当にすごいことだと思う。それは、やはりご著書の読みやすさや美文と、根を同じくする部分があるのかもしれない。

 

他の大家(たいか)の先生方を呼び止めて下さって、どんどんどんどん議論に巻き込んでいったのも、大変ありがたいご配慮だったと思う。日高先生の動物行動学の本には、よく関わられている「人」のお話も出てくる。「今こんな面白い研究をしているよ!」とお弟子の先生の研究を文中で紹介されていたり……人との関わりが、本当に上手でいらしたのだと、僭越ながら思う。

 

そして、何より私が一番嬉しかったのが、日高先生が本当に楽しそうに聞いて下さったことで……。あんな偉い先生なのに、全然、「圧」とか「上から」とかがなかった。すごく、とてもフラットに、軽やかに、聞いたり尋ねたりして下さる……ほんと、すごく嬉しかったし、何より楽しかったなあ……。賞が取れたことは、とてもとても強い喜びではあるけれど、日高先生の「面白いねえ」が、やっぱり私にとっては、何よりとっときの、ぴっかぴかの「一等賞」だったと思う。直接のお弟子の方は、これをしょっちゅう聞かせてもらえるのかと思うと、本当にうらやましかった。

 

日高先生には、もう一度だけお目にかかることがあった。別の学会の懇親会で、再びお会いすることができたので、賞のご報告とお礼を直接申し上げることができた(名刺をいただいた!)。しかし、それから程なくして、日高先生のご訃報を聞いた。私が人生で、日高先生にお会いできたのは、おそらく一時間にも満たない、たった二回きりだった。

 

「教育とは、学習者の長所・強みを伸ばすことだ」的な言説がある。私は、日高先生のおかげで確かに「伸びた」のだとは思う。こんな素人を、いきなり研究で賞を獲れるほどに伸ばすことが出来るのだから、日高先生の「教育の力」は、本当にすさまじいのだと思う。しかし、先ほど書いたのは、あくまで、私が理解している範囲での日高先生の「凄さ」でしかない。実際には、もっともっと「凄かった」に違いない。でも、もう直接お目にかかることはできない。まだわかっていないことが、たくさんあるにも関わらず。

 

読書猿さんのご著書「独学大全」に、「私淑」という項目がある。実際に会うことができない、しかし尊敬する人を師として仰ぎ、模範として学ぶことを言う(P182)とある。私淑するには、その人物の像を具体的・確かなものにするために、情報を集める(P178)。そして、その仮想の師に、折に触れて問いかける(師匠ならどうするか?)ことで、学びの指針とする(P181)のだそうだ。

 

幸い、日高先生には、膨大な数のご著書が残されている。私も少しずつ集めてはいるものの、あまりに多過ぎて、なかなかコンプリート!とはいかない。しかし、逆に言えば、それだけ日高先生の「情報が残っている」ということでもある。集め、読み、理解していくことで、私の中の「日高先生」の像が、確たるものになればいいな、と思っている。そして、私の中の日高先生は、なんと言って下さるだろうか、と、今から楽しみにしている。

 

同じく、独学大全の「私淑」の項には、こんな言葉もある。

 

「我々を教導するのは、師の現にある姿でなく、そうあろうとする姿である。つまり我々が本当に師事すべきなのは、相手が実在の肉体を持った現実の人物である場合ですら、まだ現存していない架空の師であるのだ。『月を指して指を認む』(月を指差して教えたのに月を見ないで指ばかり見ている、の意)の愚を犯してはならない。師匠という「指」ではなく、師匠が見つめるその先(「月」)を見よ」(P184)

 

これはなかなか難しい……まだ今のところ、私の「月」は見えてきていない。では、日高先生の「指」を見ているのか……?いや指も多分見えていないよなあ……分からないけれど、ただ、少なくとも、私にも、そこに「月がある」ことだけは確実に分かっているので、いつか見えるといいなあ、と最近は思っている。

 

まず、今は、手持ちのこの本、今、読書ノートをつけているこの本(「生物から見た世界」ヤーコプ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著) 日高敏隆,野田保之(訳) 思索社)から、ゆっくり読んでいこうと思う。でもこの本ってば、実は……日高先生のご著書にあるまじき難易度で……。訳者の日高先生ご自身が「邦訳が、すごく難しかった」って明言なさっているレベル……どうして……どうしてそんなところから始めてしまったのか…………読みたかった……どうしても読みたかったんや……知りたくて……日高先生ですら「難しい」っておっしゃっているのに、それにもかかわらず日高先生ご自身が邦訳に取り組んだ(※しかも版元変えて2回も)その内容を……それって、むちゃくちゃ重要な事が書いてある、ってことでは!?という期待がある。

 

……まあとりあえずは、毎日ちょっとずつ、続けていこうと思う。始めたんだから、続けてさえいれば、いずれ終わるさ!そして、まだまだ沢山、山のようにある日高先生の本を、ゆっくり読んでいきたいと思う。

 

月は、出ているか。

 

 

 

 

 

 

プラネットアース イラストで学ぶ生態系のしくみ/レイチェル・イグノトフスキー(著)・山室真澄(監訳)・東辻千枝子(訳)

I

 

 


綺麗な表紙につられて、あなたはこの本を手に取る。プラネットアース、生態系、なるほど。ペラペラとめくると、鮮やかなイラストがたくさん目に飛び込んでくる。ページごとに気候や地域が分けられていることに気がつく。グレートプレーンズ、インドシナ半島マングローブ、アルプス、知らない地域、知らない気候、たくさん、たくさん、たくさん。

思っていたより説明が多く、字も詰まっている。あなたは美しいイラストに集中する。イラストを丁寧に眺めていくと、それぞれの地域に、数多くの生き物がいることがわかる。ジャッカル、カワラタケ、サソリ、オリーブ、ノガン、マダニ、ブダイ。もっと、たくさん、たくさん、たくさん。

さらによく見ると、最初は気づかなかったが、生き物から矢印が出ている。矢印の先端は、絵の中の他の生き物に繋がっている。これは、この生物がこの生物に食べられる、ということだろうか。あなたは、一枚の絵の中に収められている生き物たちが、すべて矢印で繋がっていることに気がつく。これが「系」の意味だろうか、とあなたは思う。

そうやって、あるページが「系」で構成されていることに気がつくと、他のページもすべてそうなっていること、つまり、膨大な生物が各地で 関連して存在していること、そしてそれが何ページにもわたって存在していること、その総体をこの本が収めていること、に気がつく。

さらに、知らない見出しも出てくるかもしれない。炭素の循環、窒素の循環、リンの循環。わからない。わからない。これはいったい、なんだろう。次第にあなたは、たくさん書かれた字の方を、ゆっくり、ゆっくりと読み始める。


もし生態学を全然知らない、でもちょっと興味があるな……という方に最初の一冊を薦めるならば、私はこの本を推したい。


そしてもし、この本の楽しみ方のひとつを私がお伝えできるならば、

「“Don't think, feel.” まずは『考えるな、感じろ』」

「しかるべき後に、ゆっくりと本文を読んでいき、考えていくと、どんどん楽しくなってくる」

になるかもしれない。


まずは、本書をぱらぱらとめくるだけでも、それだけでも充分楽しいのではないだろうか。なんとなく、とてもいい気持ちになるだろうと思う。本書の随所に存在しているイラストは、本当に素晴らしい。


本書から伝わってくる、この「快い」「気持ちがいい」という感覚は、とても重要なのではないか、と思う。この本によって、これら(生態系、ひいては地球全体)を、体感的に「良きもの」であると読み手に感じさせることができる。なかなかできることではないだろうし、この本のコンセプトの素晴らしさだとも思う。「さあお勉強です!真面目に!楽しんでは駄目!」といった、押し付けに近いような形ではなく、もっと読み手が能動的にすっと入っていける、納得できる形で、もろもろの知見を吸収してほしい、という気持ちを強く感じる。


そしてまた本書では、生物だけではない、生態系自体の多様さも、手応えをもって感じられるように作られているのではないだろうか、と思う。


美しくインパクトのある、生物の写真集・映像作品は、私たちに自然の素晴らしさ、美しさをダイレクトに伝えてくれる。しかし、「系」そのもの、生物間の関係性を何らかのビジュアル的な形にして表現するのは本当に難しい。しかも、そこに着目しながら、「生態系とはなにか」の全体像を捉えよう、とした本書のような本に巡りあうのは、なかなかない、それこそ「有り難い」本のように思う。


とかく生態系は複雑なので、説明する際には「典型的(?)な食物網」のような形をとってしまう傾向があるように感じられる。イネ科の植物がある、バッタが食べる、それを食べる捕食者がいる、さらに大型の捕食者がいる、ここにキーストーン種、ここにアンブレラ種、分解者をここにおき……のように、簡略化して、一括で説明していきがちではある。「とにかくまずは、仕組みをきちんと、シンプルに理解してほしい」で、通常は簡単なモデル図示で済ませてしまわざるを得ない。


しかし、本来の生態系は画一的に説明できるものではなく、むしろ地域ごとの複雑さや多様性に富んでいる。むしろその煩雑さ、多様さこそを重要視し、真正面から取り組んだのが本書の良さであり、価値の根っこの部分にあたるように思う。各地域の生態系に対して、めりはりのある色彩で何十枚ものイラストを使い、説明してくれている。そして頭のてっぺんから尻尾の先まで、徹頭徹尾この丁寧さ、この密度を維持したまま、本は作り上げられている。なんという力作だろう、と思わずにはいられない。


また、地形や気候区分に配慮しながら、説明する地域を選んでいっているのは、本当に素晴らしく、また細やかだな、と思う。高校の授業で習った「ケッペンの気候区分」を思い出される方もいるかもしれない。植物は気候の影響を直接的に受けるため、そこを基盤に成立する生態系は、地域ごとの特性を反映する形となる。気候・地形の差異が、そのまま生態系の違いとなり、多様多彩な各種の生態系を作っているのが、よくわかる作りになっている。


まあ、でも、あまり肩肘はらずに、連続してぺらぺらめくっているのだけで、本当に十分楽しくなれる。私は、よくそういう読み方をさせてもらっている。世界のかなりの地域を網羅しているため、まるで世界各地をのんびり旅して、各生態系を覗いているような気持ちになってくる。


そうやって、間口を広くとってくれているにもかかわらず、好きな人でも十分に楽しめる内容になっている。生態系?食物網?知ってる知ってる。私のような横着者に対しても、いやいやちゃんとよく見ようよ、と首根っこを掴んでくれて、美麗なイラストで圧倒的な物量を懇切丁寧に粘り強く説明してくれる。


そう、そして一方でこの本は、案外字が多い。イラストを見て「どうですか?興味が出てきましたか?そしたらこちらに、こんなご案内があるんですよ」という感じで、たくさんの説明文が配置されている。そんなに大きな文字ではなく、一方で比較的みっちり書いてあるので、実は読み応えがある。それでいてデザインの邪魔をしない、絶妙なバランスになっている。

そして基本的に、説明内容は腰の座ったあたりから入っていて、「生態系・生物多様性周りだけ」で説明していない。例えば、系統分類学的な本だったら「界門綱目科属種」で始まるであろう場所に「生物圏→バイオーム→生態系→生物群集→個体群→個体」が書いてある。「ここからきちんと説明していきますよ」という宣言のようで、これは唸った。(そして、「生物の分類」そのもののページもある。上記に加えて、ドメインの説明もされている)

また、潜ろうと思ったら、どこまででも潜っていけるであろう手がかり、フックのようなものをたくさん準備してくれている。巻末の用語集には、さりげなく「古細菌」が入っている。これはすごい、と思わされた。確かに古細菌は本文中にほんの少しだけ登場する。しかしおそらく、通常「生態系」「生物多様性」的な本を作ろう、と思った時に、本文でも少ししか触れていないこのような単語をチョイスし、わざわざ紙面を割いて説明はしないような気がする。

古細菌は(一般的な意味合いでの「生き物」として考えられる)真核生物の始祖的な系譜にあるため、確かにとても重要な生物だとは思うのだけれど、どちらかといえば系統分類・進化の文脈で出てくる生き物のように思える。私のような未熟者などは、古細菌が、生態系に対して具体的にどのように関与しているか、なんて、とてもとても上手く説明できない!「なんでそんなややこしい方面に自ら突っ込んでいくの……?生態系で分解者としてふるまう細菌だけ説明すればよくない……?」とさえ思う。しかし、そうではないのだと思う。

この本は、「生態系・生き物全体をどう考えるのか」を主軸に据えて、丁寧に説明してくれている。古細菌も生物として地球上にきちんと、確かに存在している。ならば、説明しなければならない。この、逃げず、無視せず、コンセプトに真っ向から向き合う、手の抜かなさは、本書の本当に素晴らしい点だと思う。

また、もしかすると、この項目を設けておくことで、読み手が「ああ、古細菌っているのか。キーワードに入っているから重要なのだろう。なるほど、じゃあもっと詳しく調べてみよう」と、より深く生物を知るための手がかりにするかもしれない。おそらく、そのように考えて作られているのだと思う。

そして、キーワードにはもちろん、定番中の定番の「生物的/非生物的(環境)」「キーストーン種」「エコトーン」等々も盛り込まれている。本当に素晴らしいバランス感覚で、本書はできている。

また、定番のところから、新しい知見への広がりまで目配りがゆきとどいているのは、やはり新しく出版された本の良さだな、とも思う。都市は生態系と対立する概念!みたいなものは、本当に古くなってしまったなあ、と本書の「都市」の項目を読んでしみじみ思った。

本書では、都市はまず人間の生活に不可欠であること、その中でも他種の野生動物が生活していること、が提示される(最近はこの辺の「都市の中の生物」は、概念としてかなりなじみが出てきて、特に映像作品等々でもよく取り上げられるようになってきているな、という個人的な感想を覚える)。しかし当然のように、都市拡大のための自然地域の破壊は存在している。ならば、都市計画の時点で生態系に配慮・導入することや、再生可能エネルギーを使うことにより、問題は解決するのではないか、と提示する。

都市を人間生活に必要と認めた上で、どう折り合うかを考えていこう、という流れそのものが、近年、主軸に据えられている「持続的な開発」に基づいて話を展開している。もちろん、おそらくこの概念自体も、最前線で取り組んでおられる方からすれば、必ずしも最先端ではないのかもしれない。しかし、新しく定着しつつある最中の概念を中心にして説明を行うのは、それこそ「その先」を目指すために必要な事柄であるように感じられる。


この本の冒頭にはこう書いてある。「あなたがこのページを読んでいる今、アマゾンの熱帯雨林ではジャガーが狩りの真っ最中、サンゴ礁には生き物があふれ、自転車便の配達人はベーグル片手にニューヨーク市内を走っているでしょう。それぞれは無関係なできごとのようですが、実は全ての生き物には、あなたが思っているよりもずっと共通点が多いのです」


「行ったことのない土地、見たことのない生き物たち」に想いを馳せるのは、とても楽しい。しかし実は、自分と関係ない場所ではなく、確かに自分はそこと「繋がっている」。本書はこれを、体感覚として認識させてくれている。


本書は、ビロードの敷かれた箱に入ったおいしいチョコレートのように、少しずつつまんで楽しんでいくのがいいかもしれない。そしてチョコレートよりもなお良いのは、なくなったりしないことだ(そしてたくさん摂取しても、太ったり身体が悪くなったりはしない!)。ぜひ手元に置いて、ちょっとずつ、そして末永く、楽しんでほしい本だと思う。

群れはなぜ同じ方向を目指すのか? 群知能と意思決定の科学/レン・フィッシャー(著)・松浦俊輔(訳)

 

群れはなぜ同じ方向を目指すのか?

群れはなぜ同じ方向を目指すのか?

  
 

【専門書か一般書か】

多分、かなり一般書寄り

【文章表現】

とても読みやすい。外国の本らしい小粋なユーモアがちょいちょい挟まる。 

【どんな人向けか】

集合知」「群知能」の概略的な話を知りたい人。多分ほんとに知らない人向け(私のような)。ちょっとでも、生物好き/統計学好き/数学好きだったりすると、なおいいかもしれない。あと、「SNSを使いこなしてバズったりウハウハしたい人向け」……と書きたいところだけれど、多分、そういう方々が想像するような内容ではないんじゃないかな~~~。そこら辺については、かなりまっとうで常識的なことしか書いていない。ただ、最後に、複雑系・群知能を実生活で使いこなして役立てていくためには」みたいなTIips集はあるので、そこだけ読んでみても損はしないのでは。

 【全体の構成】

1・2・3章は生物種(ヒトを含む)に、共通的・普遍的に見られる「群知能」「自己組織化」「最短経路探索方法」についての章。4章はかなりヒトの行動に比重をおいて、群集の中で移動しようとする際の力学についての章。5章以降からはヒトの集団の話になる。ヒトの集団での意思決定についてが5章、集団での合意形成の話が6章、7章はwebなどのネットワークの広がり方の特徴の話(「ネットワークでベストセラーを生み出すためには?」のような話題もあるよ!)。8章以降は「自分」の話になる。8章、複雑・わからない状況のときに意思決定するには?9章、複雑な物事から「法則性」を抽出する際の考え方。10章は、これまでの話で、複雑系群知能などを利用して自分の生活に役立てていくためには?というまとめとサービスの章。 

【読んだあと、どう変わった?】

群衆の中の自分とは、とか、Webなんかでのネットワークの中の自分とは、などの、メタ認知的な視点・発想が出るようになる気がしますね!あと「じゃあ生物にとっての『知性』って何なんだろう」とますます興味が出てきた…全然専門ではないのだけれど… 

【関連書籍】

私はこれがこの分野ファーストコンタクトなので、この本からの派生はむしろ他の人に教えてもらいたい気がする…。ただ、巻末の著者イチオシの参考文献が大変充実しているので、こっちを攻めていくとすごく面白そう!あとちょっとズレてしまうかもしれないのですが…お客様の中にー!お客様の中に生物の個体群の動態(ある生息地内での生物の個体数の増減とか)にご興味のある方はいらっしゃいませんかー!そういった方には桐谷圭治先生の本をお勧めしておりますー!

 【感想】

私が、この本を「すごい!素敵!」と思った点は、大別すると「自分のような初めての人間でも用語・知識が分かりやすく解説されている点」「『知性あるヒト・未熟な知性の他の生物』という構造ではなく、『群知能』を普遍的なルールとして扱っているところ」「2009年に書かれたにもかかわらずの先見性」の3点に集約されるかな、と思う。

 ・自分のような初めての人間でも用語・知識が分かりやすく解説されている点

これはね…ほんとにこの本すばらしい… いくつか面白かったところを要約すると(そう私でも要約できるのです…)

「全くの未知の事象に対して、みんなめいめいに当てずっぽうを言わせて、平均すると、なぜか真の値に近くなる(→みんな知らないことなのに、みんなで勝手にわいわい言っているだけで、なぜか真理に行き着いてしまう)」 

「ただし、↑上記の発動条件は『相談しないこと』。相談すると正答率ががくーんと落ちる。これは『集団思考によるもの」(←みんなで相談したほうが正答率が下がる、って面白くない!?!私は面白いと思った!) 

「『集団思考』は、別にカルト宗教的な特別な集団で起こるわけではなく、わりと普通にどこにでもある。例えば『チャレンジャー号事故』集団思考が引き起こしたといえる」 

「webなどのネットワークで情報拡散をするためには、拡散をする人に何らかのインセンティブ(見返り)があること。それは具体的なお金などだけではなく、抽象的な『この商品は大変いいものだから、みんなに広めたい!』とかの気持ちでもいい」 

「ある物事をぜんせん知らないほうが、正解の選択肢を引けることがある(単純なヒューリスティックの強さ)」 

「何らかのデータを取得した際、上一桁の数値の分布は常に偏っている(※逆に、偏っていなければデータ捏造の疑いがある)(ベンフォードの法則)」 

などなど…他にも「クォーラム反応」「コンドルセ陪審定理」「アローの不可能性定理」「ラムゼーの定理」なんかがとても分かりやすく解説されている。 

・「知性あるヒト・未熟な知性の他の生物」という構造ではなく、「群知能」を普遍的なルールとして扱っているところ 

そう…そうなんですよ…この本の1.2.3章がね…私ほんとに好きで…扱っているのがアリ・ハチ・イナゴなんだけど…… 

アリ……?イナゴ……?と思われた方がいるかもしれない。人間の知恵が、アリごときと比肩するとでも……? 

いやいやいや! 

あのですね。私見ですが。 

例えばアリは(アリだけじゃないけど)、ずーーーっと昔から、はるか昔から、地球にいたわけじゃないですか。ヒトよりも、ずっとずっと昔から。その間、数多の天変地異をものともせず、延々続いてきているわけですよ。 

一方でヒトは、そのままだと生き延びられないから、自分が生きるためにわざわざ周囲の環境を大きく作り変えないと、生きていけないわけですよ。今この瞬間、マッパで荒野で放り出されて、生きていけますか?少なくとも私は無理。ヒト、そういう意味では弱い。とっても弱い。そのままじゃどうにもならなかったから、こんなでっかい農業だの都市だのエネルギーだのが必要だったわけだから。 

ある意味、生存のための戦略は、アリの方がヒトよりすでに究まっている。生きるための最適化はおそらく、アリの方がより進んでいる。 

よし。アリに倣おう。 

……いや、そんなノリかは、ほんとにそんなノリかは確信がないのですが、この本では特に序盤、ひょいひょいヒトの群知能と他の生き物の群知能的な戦略の話を行ったり来たりするのです。 

そして読んだ人は震えてほしい!アリやハチやイナゴに「キサマ等のいる場所は既に我々が二千年前に通過した場所だッッッ」って言われちゃう時の気持ち!(いやしかもタイムスケール的には、もっともっと遥か昔にご到達なさっているんだろうけど……) 

そんなわけで、群知能には、種の壁を越える(←私この言い回しあんまり好きじゃないけど)「普遍的な」「共通の」ルールがある、と提示してくれているところが、私が個人的に特にとてもツボったところです。 

・2009年に書かれたにもかかわらずの先見性 これねー…7章とかがほんとすごくて…ほんと今のネットワーク(特にSNS)の世界とかの話じゃーんとか思う… 

ぼんやりした個人の印象でまことに恐縮ですが…インターネットは2000年ジャストごろから流行りだしたかなーfacebooktwitterあたりは2010年ぐらいから日本に本格上陸かなー(mixiのこともたまには思い出してあげて下さい…)という感じで、これ書かれた時はまだそこまでそんなにみんなSNSって感じでもなかったような気がするのよなー…もうすでにネットワークそのものに対して、こんなに知見があったんだなー…ということにびっくりした… 

そしてまた7章さあ…タイムリーに「伝染病とネットワーク」の話がね…出ているんですよ…ちなみに大規模な感染を防ぐためには「ハブに近寄らない」「コミュニティー間を繋ぐ長距離のリンクになりそうな人(自分自身を含めて)を監視する」が必要と既にこの時点で明示されていて…明示されているのに…なんでかなあ…ほんと、なんでかなあ… 

まあここまで書いてきてアレですが、私の駄文じゃこのこの本の良さ全く伝えられてる気がしないね!読んで!ほんといい本だから、少しでも引っかかった人、ほんと読んで!

そしてさらにもし気が向いたら、読んだあと「お前ここ違うよ!読めてねぇよ!」という激しいツッコミ、「勉強が全然足りてないよこの本読みなよ」という愛ある参考文献の提示がいただけると、私はとても嬉しいです!