ひたすら生態学(とその近隣)の本を推していくブログ

五文字では足りなかった……!情念で押していく所存です。みんな!ここに沼があるよ!

動物行動学者・日高敏隆先生の思い出

自分でもよく分からない衝動に突き動かされ、なんとなく、そう本当に「なんとなく」で書きたくなった……。そして、どこに書いてもいいのかがわからず、とりあえずここに書いていこうかな的な。

 

いやもう本当に、正直に書きますと、直近までグダグダな状況に陥っていたことから、メンタルに大変悪い影響があり……いや今は回復の途上にはあるのだけれど、ちょっとこう、ここで勉強とか研究とかへのモチベーションを上げていくためにも、素敵な先生方との出会いとか思い出とかを、ガンガン地層から発掘していきたいな的な所存です。

 

日高敏隆先生はもう……言わずと知れた動物行動学の大家オブ大家であり、ご著書もそれはそれはもう多数あり(しかも、文章がとびきり素敵で……ほんとどういうことなの……天は何物(なんぶつ)を与えるの……)、でも、たまたま、ほんの一瞬とはいえ、私は直接ご指導を受けることができた。そしてその時、日高先生は、本当に優しく、また、確かな指針を私に与えて下さった。ちょっと、その時のことを思い出しながら、書いていってみたいと思う。

 

むかしむかしのその昔。

私は、動物行動学はズブのド素人・駆け出しも駆け出しの大学院生、という状況にも関わらず、何故か日本動物行動学会で筆頭著者としてポスター発表をしていた。

 

まあそういう、不思議な状況って、あるよね……あるある……(遠い目)。非力な大学院生に何ができようか……今、もう、そんな辛い状況に学生が追い込まれたりとかしない世界になってるといいな……

 

いやもう本当に、動物行動学の基礎知識なんか、スッカスッカの状況で放りこまれたので……まあ分からない。当然のように、全く分からない。それでもなんとか、データをそれなりの研究っぽい形にして、発表にはこぎつけられたのだけれど……「とにかくちゃんとした形にして発表しろ」という指示はあるのに何も指針がない、という状況は、本当に辛かった。

 

当然のように、自分の研究・発表する内容に自信なんかあるはずもない。ひたすら「早く時間が過ぎないかな」という気持ちで、自分の研究のポスター前に突っ立っていた。(※学会の「ポスター発表」という形式は、自分の研究内容を一枚の大きなポスター(A0サイズが多いかな…)にまとめ、見に来てくれた人に、それを口頭で説明していく発表形式です)

 

日高先生が私のポスターの前まで、どのようにしてお越しになったのかは、あまり覚えていない。気づいたら、ふっといらしたような気がする。あっ日高先生だ!日高先生が私のポスターをご覧になっている!と思った瞬間、頭の中は真っ白だったけど、とにかく!とにかく丁寧に説明しなくては!と思った。私が少し説明したら、すぐに日高先生が質問されて、そこからはほんの少しだけリラックスして、説明を続けることができた。

 

日高先生は「面白いねえ」と言って下さり、また、いくつかの質問と重要なご示唆を私に下さった。

 

さらにはまた、他の大家(たいか)の先生方が近くを通ろうとするたびに、日高先生は「この子の研究、面白いから、ちょっと一緒に聞いていってごらんよ」と、お一人お一人にお声をかけて下さった。そうやって、「なんだなんだ」と先生方が集まって聞きにきて下さり、「あそこはああだ」「ここはこういう解析もある」……等々の、大変白熱したディスカッションを伺うことができた(もうほんと、私なんか発表者本人なのに、なぜか「そうなんだ……そうなんだ……」とひたすら聞きながらメモをとるばかりだった……)(むしろ、私のポスターを指しながら、私に説明して下さる先生もいらした……)

 

学会から帰ってからしばらくして、所属していた研究室で、ある賞に応募する話になった。自分の研究について、ひとりひとりが賞に応募する形で、「自由参加」と言う名の「義務」だった(よくあるよくある……)。方向的に動物行動学向きの話だったのだけれど、前述のように、私には動物行動学のベースなんかない。でも、賞には応募しなければならない。手持ちの武器はついこの前発表したネタしかない。私はそれをベースにしながら、日高先生のご示唆や、先生方のディスカッションをひたすら思い返し盛り込み、また自分の考えや解析を練り直して、なんとか期日までに提出できた。

 

そして私は、自分が動物行動学の専門でもないにもかかわらず、その賞をとることができた。自分の研究で、賞をもらえる、評価される、という経験は、本当に嬉しく、支えになるものだった。また、これは本当に、日高先生のおかげであり、先生がお持ちであった、計り知れない「教育」の力だなあ、と思い、今でも感謝している。

 

……もしかすると、私の書き方・話の展開の仕方が非常にまずく、この話は「けっ!結局は最後、自分の自慢に持っていきたかっただけの話かよ!」とか、読まれている方に思われるのではないかと、大変危惧しております……。それは……それは私としては大変不本意で……やややや。それでは、それではないです私が言いたいの……。そんなわけで、今考えていることを、以下に書いていこうと思います。

 

多分、私のあの研究なんか、ほんと、そんなに良いところはなかったと思う。何度もしつこく書いて恐縮ですが、私なんか動物行動学の素人オブ素人だし、何よりベースの動物行動学の知識、基本をまるですっ飛ばしてやっていたのだから……。あったとしても、ほんのちょっとだったとは思う(今考えてみると、もしなんとかそれでも良いところを捻り出すとすると、生物保全×個体群×動物行動学、的な、色々な分野のコラボになっているところは面白かったのではないかな?と思う……そのぐらい……)。でも、それでも、その、そんな研究を基にして、賞を取ることができた。

 

今分かるのは、むしろそれこそが、日高先生の「教育」の力だったんだ……と、そう思う。あの、たった20分か30分かそこら、私が日高先生から直接ご指導を受けることができたのは、そのわずかな時間であったのだけれど、それでも、そんな成果が叩き出せるぐらい、日高先生の指導の力がすごかったのだと思う。

 

まず、私の研究にあった、ほんの少し、本当に少しだけの「いいところ」を見つけて下さったのだと思う。よーく目をこらさないと見つからないような、かすかな、かすかな「いいところ」だったはずだ。でも、日高先生の濃やかで細やかな観察力が、それを確かに見つけ出して下さったのだと思う。

 

そしてそれを、まるで分かっていない私にも分かるような形で、引っ張り出し、提示し、丁寧に説明して下さった。その「言語化の力」「説明の力」で、素人の私相手に理解させるのは、本当にすごいことだと思う。それは、やはりご著書の読みやすさや美文と、根を同じくする部分があるのかもしれない。

 

他の大家(たいか)の先生方を呼び止めて下さって、どんどんどんどん議論に巻き込んでいったのも、大変ありがたいご配慮だったと思う。日高先生の動物行動学の本には、よく関わられている「人」のお話も出てくる。「今こんな面白い研究をしているよ!」とお弟子の先生の研究を文中で紹介されていたり……人との関わりが、本当に上手でいらしたのだと、僭越ながら思う。

 

そして、何より私が一番嬉しかったのが、日高先生が本当に楽しそうに聞いて下さったことで……。あんな偉い先生なのに、全然、「圧」とか「上から」とかがなかった。すごく、とてもフラットに、軽やかに、聞いたり尋ねたりして下さる……ほんと、すごく嬉しかったし、何より楽しかったなあ……。賞が取れたことは、とてもとても強い喜びではあるけれど、日高先生の「面白いねえ」が、やっぱり私にとっては、何よりとっときの、ぴっかぴかの「一等賞」だったと思う。直接のお弟子の方は、これをしょっちゅう聞かせてもらえるのかと思うと、本当にうらやましかった。

 

日高先生には、もう一度だけお目にかかることがあった。別の学会の懇親会で、再びお会いすることができたので、賞のご報告とお礼を直接申し上げることができた(名刺をいただいた!)。しかし、それから程なくして、日高先生のご訃報を聞いた。私が人生で、日高先生にお会いできたのは、おそらく一時間にも満たない、たった二回きりだった。

 

「教育とは、学習者の長所・強みを伸ばすことだ」的な言説がある。私は、日高先生のおかげで確かに「伸びた」のだとは思う。こんな素人を、いきなり研究で賞を獲れるほどに伸ばすことが出来るのだから、日高先生の「教育の力」は、本当にすさまじいのだと思う。しかし、先ほど書いたのは、あくまで、私が理解している範囲での日高先生の「凄さ」でしかない。実際には、もっともっと「凄かった」に違いない。でも、もう直接お目にかかることはできない。まだわかっていないことが、たくさんあるにも関わらず。

 

読書猿さんのご著書「独学大全」に、「私淑」という項目がある。実際に会うことができない、しかし尊敬する人を師として仰ぎ、模範として学ぶことを言う(P182)とある。私淑するには、その人物の像を具体的・確かなものにするために、情報を集める(P178)。そして、その仮想の師に、折に触れて問いかける(師匠ならどうするか?)ことで、学びの指針とする(P181)のだそうだ。

 

幸い、日高先生には、膨大な数のご著書が残されている。私も少しずつ集めてはいるものの、あまりに多過ぎて、なかなかコンプリート!とはいかない。しかし、逆に言えば、それだけ日高先生の「情報が残っている」ということでもある。集め、読み、理解していくことで、私の中の「日高先生」の像が、確たるものになればいいな、と思っている。そして、私の中の日高先生は、なんと言って下さるだろうか、と、今から楽しみにしている。

 

同じく、独学大全の「私淑」の項には、こんな言葉もある。

 

「我々を教導するのは、師の現にある姿でなく、そうあろうとする姿である。つまり我々が本当に師事すべきなのは、相手が実在の肉体を持った現実の人物である場合ですら、まだ現存していない架空の師であるのだ。『月を指して指を認む』(月を指差して教えたのに月を見ないで指ばかり見ている、の意)の愚を犯してはならない。師匠という「指」ではなく、師匠が見つめるその先(「月」)を見よ」(P184)

 

これはなかなか難しい……まだ今のところ、私の「月」は見えてきていない。では、日高先生の「指」を見ているのか……?いや指も多分見えていないよなあ……分からないけれど、ただ、少なくとも、私にも、そこに「月がある」ことだけは確実に分かっているので、いつか見えるといいなあ、と最近は思っている。

 

まず、今は、手持ちのこの本、今、読書ノートをつけているこの本(「生物から見た世界」ヤーコプ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著) 日高敏隆,野田保之(訳) 思索社)から、ゆっくり読んでいこうと思う。でもこの本ってば、実は……日高先生のご著書にあるまじき難易度で……。訳者の日高先生ご自身が「邦訳が、すごく難しかった」って明言なさっているレベル……どうして……どうしてそんなところから始めてしまったのか…………読みたかった……どうしても読みたかったんや……知りたくて……日高先生ですら「難しい」っておっしゃっているのに、それにもかかわらず日高先生ご自身が邦訳に取り組んだ(※しかも版元変えて2回も)その内容を……それって、むちゃくちゃ重要な事が書いてある、ってことでは!?という期待がある。

 

……まあとりあえずは、毎日ちょっとずつ、続けていこうと思う。始めたんだから、続けてさえいれば、いずれ終わるさ!そして、まだまだ沢山、山のようにある日高先生の本を、ゆっくり読んでいきたいと思う。

 

月は、出ているか。